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ミルクボーイ、「やすきよ」「ブラマヨ」に連なるツッコミの系譜
誤解を恐れずに言えば、漫才とは立ち話である。しかし、この話芸が廃れないのは、時代と共に常に進化し続けているからだ。『M-1グランプリ2019』で優勝したミルクボーイの駒場孝(33)と内海崇(34)も、独自の漫才スタイルを披露したことで注目を浴びた。彼らの漫才は、なにが特別だったのか。過去のお笑いコンビを振り返りながら、その成り立ちについて考える。
ここ数年の漫才は、ツッコミで笑いを誘うのがトレンドと言っていい。備中神楽からヒントを得て、大げさな動きと口調でツッコミを入れる東京ホテイソン・たける、“ツッコまないツッコミ”として話題となったぺこぱ・松陰寺、ミルクボーイ・内海もこれに当てはまる。漫才の笑いどころを、ツッコミに求めるコンビが多くなった。
そのきっかけとなったのは、M-1グランプリ2004で準優勝した南海キャンディーズではないだろうか。ツッコミ・山里亮太から放たれるフレーズは、「新しすぎるって。オレ、それ広げる自信ないよ」「どうしよう。オレ、こんな状況生まれて初めてだ」など、ボケに振り回される気持ちの揺れを表すようなワードがちりばめられていた。
なによりも大柄でおっとりした口調の相方・山崎静代のキャラクターにフィットし、ボケでもツッコミでも笑いがとれるスタイルを提示した。
極めつきは、2005年に同大会で優勝したブラックマヨネーズだ。
もちろん、ボケ・吉田敬の極端なネガティブ思考だけでも十分面白い。しかし、それに翻弄(ほんろう)されて熱量が高まっていく小杉竜一のツッコミによって、笑いが倍増するスタイルを確立した。
参考までに、彼らの「格闘技」というネタの一部を見てみよう。護身のため格闘技を習いたいという吉田に対し、小杉が相撲を提案した際のやり取りだ。
ボケとツッコミという役割があるとはいえ、お互いの常識的な感覚をぶつけ合う“ツッコミの応酬”とも言える漫才である。
ツッコミが注目されるようになった2010年以降の日本は、社会全体を長い景気の停滞が覆い、天災による被害が相次いだ。そんな状況下では、“逸脱した非常識”を受け入れる余裕がないのかもしれない。ミルクボーイの漫才は、こうした流れのなかで生まれるべくして出たスタイルと言えるだろう。
そもそもボケ・ツッコミという漫才の型を破る流れはいつからはじまったのか。それをひもとくため、横山やすし・西川きよしの時代までさかのぼってみる。
1982年に発売されたボケ・やすしの自伝本『やすしの人生一直線』(講談社)によると、上方漫才大賞で大賞を受賞した1970年の第一次絶頂期に、すでに二人の行き詰まりを予感していたという。
1973年の再スタートにあたって「舞台で俺がボケからツッコミにコロッと変わったり、相方がツッコミからボケに変身したり、ボケとツッコミの区別なしに、変化しあえる漫才になってきた」と、意図的にマイナーチェンジしたことを回想している。
恐らく、このあたりで“漫才は変化することで面白くなる”という発見があったと考えられる。
1980年代に入ると、空前の漫才ブームが起こる。なかでも、B&B、紳助竜介、ツービートが漫才の新しいスタイルを示して若者から支持を集めた。
3組に共通するのは、ボケが圧倒的な量を早口でしゃべって笑いをとることだ。
当事者の島田紳助氏は、過去に出演したさまざまな番組で「うまい芸人は1回の漫才での間が多い。自分たちは、その間を埋めることで失敗する確率を減らした」といった趣旨の発言をしている。
つまり、短期間で技術をカバーするためのスタイルだったのだ。
その後、漫才のペースを落としてボケの質を変容させたのがダウンタウンである。
ベーシックな漫才の型ではあったが、ピンポイントな設定や間合い、思わぬ角度からボケる松本人志のセンスが漫才を革新させた。1990年代の漫才は、彼らのスタイルが主軸になったと言ってもいいだろう。
2000年代に入ると、M-1グランプリがはじまる。賞レースで勝ち上がるという番組の影響から新しい型を持つコンビが目立つようになった。
Wボケを発明した笑い飯、小ボケを量産して笑いをとるナイツ、ズレ漫才(Wツッコミ)のオードリーなど、新しい型を武器として漫才は進化していった。
ミルクボーイは、内海のベテラン漫才師のような関西弁や声量の大きさも相まって、一見するとオーソドックスな漫才に見える。
しかし、実はボケ・駒場が話のほとんどを振り、ツッコミ・内海の偏った物言いで笑いをとるという変則的な構造になっているのである。
ミルクボーイが所属する吉本興業は、創業時から舞台を大切にしている。全国の主要都市にこれほど劇場を構えている芸能事務所はほかにない。
テレビやラジオのメディアミックスで営業利益を上げているのは事実だが、その根底には劇場に足を運ばせたいという狙いがある。
そんな吉本興業がとくに力を入れてきたのが漫才だ。もともと漫才は「万歳」という表記だった。
万歳とは、三河地方(現在の愛知県東半部)に伝わる「三河万歳」が語源で、正月の祝福芸として楽器を持って演じる伝統芸能。お笑いコンビ・すゑひろがりずがM-1グランプリ2019で披露したスタイルに近い。
1930年代に入ると、吉本興業所属の横山エンタツ・花菱アチャコが“しゃべくり”のみで笑いをとる画期的なスタイルを確立。この話芸を主軸として育てたかった吉本興業は、元のイメージを変えるために「万歳」から「漫才」へと表記を改めた(出典:澤田隆治著『笑いをつくる―上方芸能笑いの放送史』日本放送出版協会より)。
だからこそ、どの事務所よりも「漫才」に対する思い入れが深いのだ。
かねてより漫才は、“生もの”だと言われている。芸人は常に会場の空気をうかがいながら、ネタを選んだりテンポを変えたりしながら笑いどころを探っていく。
「空気が重い」「客層が違う」といった言葉は、ある意味で芸人の技術のなさを認めるようなものなのだ。
今年1月に行われたお笑いコンクール「ビートたけし杯『お笑い日本一』」のなかで、名誉顧問を務めたビートたけしは、「優勝者なし」という判断を下した。
その理由として「お客さんにはいろんな種類がいて、ある程度やってる芸人はその様子を見てネタを変えるんだけど、今回のみんなはこの日のために仕上げたネタを客に関係なくぶつけてきちゃった」と厳しい言葉を残している。
ミルクボーイ・内海もまた、自身のブログのなかで、「なかなかすべった。悲しい。届かせてみせる。コーンフレークも直前ではすべった」と、過去に苦いエピソードをつづっていた。
会場やイベントに合わせたネタ選びは、長年の経験が物を言うのかもしれない。
1月17日、都内で行われたNSC(吉本総合芸能学院)の特別授業のなかでミルクボーイの2人が語った「漫才を極めたい」という言葉からは、ネタや間のとり方はもちろん、なにより舞台を掌握できる職人を目指したいという思いが伝わってくる。
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