連載
#43 #withyouインタビュー
「死にたい」と言う彼女に「殺すぞ」 監督が考える「寄り添い」
「死にたい」と言う彼女に「殺すぞ」と応じる彼――。思春期の心に寄り添おうと、悩み相談に応じるSNS相談事業もどんどん増えていますが、「相談」という手法の中ではあり得ないやりとりです。11月15日に公開される映画「殺さない彼と死なない彼女」は、そんな「あり得ない」場面をあえて描きながら、「大切なもの」について伝えようとしています。「同じものを求めていたからこそできるやりとり」と話す、監督と脚本も手がけた小林啓一監督と、生きづらさやその寄り添い方について考えました。
《あらすじ》
何にも興味が持てず、退屈な高校生活を送っていた少年・小坂(間宮祥太朗)は、リストカット常習者で“死にたがり”の少女・鹿野(桜井日奈子)に出会う。それまで周囲から孤立していた二人は、《ハチの埋葬》をきっかけに同じ時間をともに過ごすようになる。不器用なやりとりを繰り返しながらも、自分を受け入れ、そばに寄り添ってくれるあたたかな存在──そんな相手との出会いは、互いの心の傷を癒し、二人は前を向いて歩み出していくのだが……。
(映画公式サイトより)
――死なない彼女(鹿野)は、「死にたい」と口癖のように言うし、殺さない彼(小坂)は「殺すぞ」という言葉を多用します。それぞれの言葉の意味についてはどう考えていますか。
原作(原作者・世紀末の同名漫画)の台詞を使っていますが、刺激が強い言葉なので、はじめはもちろん抵抗はありました。この言葉が二人にとって好戦的な意味で使われるのであれば多少変えないといけないと思っていましたが、そうではありません。
二人のこの言葉のやりとりは、あいさつみたいな感覚です。表現の仕方があまりないから、手初めに簡単な言葉として使っているだけで、言葉の重みをそこまで本人たちは感じていません。
また、二人にとってこの言葉は、社会とか一般的なものからの拒絶という意味があると思います。
自己肯定ができないからこそ、社会や共同生活に対して壁をつくるという意味合いがあると思います。
「殺す」も、「死にたい」も、バリアというか、いつの間にか出来ている心の垣根として捉えています。だから、映画の序盤では記号的に使っています。
それが終盤にかけて、小坂の「殺す」は愛情表現になり、「好き」という好意の気持ちをのっけた言葉として変化していきます。
鹿野の「死にたい」も、徐々に「生きたい」の表れとしての言葉に変化していきます。
言葉はきついけど、うまく自分を表現出来ない子たちの表現方法だと考えました。
――二人はなぜ社会にバリアをはっているのでしょうか。
小坂は、サッカーをしていたけれど足をけがして荒れ、一年留年している設定です。
高校を辞めるという選択肢もある中で、父を亡くしている家庭環境で母への義理なども感じながら、留年してでも学校に行くという選択をしています。
輝かしい学園生活を送ろうとしていたのが、けがで台無しになってしまったという点で自分に絶望していて、それが周りとの壁にもつながっている。自分を諦めるという気持ちもあったのかもしれない。
なので、周囲との関わりをシャットアウトし、無関心無感動です。
――鹿野はどうでしょうか。
彼女は、設定としては幸せな家庭に生まれてて、すごくピュアな性格です。
高校生ともなると、ピュアでいることのつらさみたいなのがありませんか?アツイやつが嫌われるとか、一生懸命やってる奴がバカを見るみたいな。
鹿野もそういところがあります。死んだ蜂を土に埋めるというシーンがありますが、鹿野は小学生がやりそうなことを高校生になってもやるような子です。
そういうことをすると、周りにバカにされたり、「変な奴」とか「自分を可愛く見せてる」とか言われるじゃないですか。
鹿野は、そういう周りの人たちについて行けなくて、社会になじめない自分を「消したい」みたいな感じになっているんじゃないかなと思います。
――鹿野の「死にたい」は「消えたい」に近い?
本当は周りとうまくやりたいという自分もいるんですが、「いじめられるからいやだ」という気持ちがあり、そのギャップが苦しい。でも、そんな自分の気持ちに明確に気づいていないんです。生きづらさには色んなファクターがあるんだけど、要因すらもわかっていないのが鹿野です。
そんな中で、一番居心地のいいところ、ユートピアを探し、求めているような気がします。
でもその場所がなんなのかもわからないし、半ば諦めているから、「消去したい」とか「消えたい」とかの気持ちになるのかもしれない。
――そんな二人の関係がどんどん深まっていき、寄り添い合う関係にも見えるのは何でなのでしょうか。
同じものを求めているからだと思います。
「居心地の良い場所」とか「自分が自分でいられる場所」とか。だからこそ通じあっているんだと思います。
映画では、世界で貧困を理由に亡くなる人がいることを授業で先生が話すのですが、それを聞いた鹿野が泣く場面があります。
それが彼女のピュアな部分ですが、小坂もサッカーに熱中していたという、本来的にはピュアな部分がある人物です。だからこそ、小坂は「ピュア」を保っている鹿野に興味を持っていて、鹿野のことを否定も肯定もせず、寄り添います。
鹿野にとっての小坂は、自分の変な行動も、なんとなく理解してくれている人。お互いにつながっている部分があるんです。
――現実にも、居心地のいいところを探して生きている子たちがたくさんいると思います。
映画の中では、鹿野が小坂に出会い、自分が「心地よくいられる場所」というか、「ここならいられる」というところを見つけたのかなと思います。
それは、「未来」でもあると思うんです。
小坂が、鹿野にとっての未来の像を見せてくれる人物ということになります。
――映画の中では「未来の話をしましょう」という言葉が、複数の登場人物の台詞として出てきます。
原作では、「君が代ちゃん」の台詞で「未来の話をしてもいいかしら」というものがありました。
この言葉がすごく印象に残ったので生かしました。
明日の楽しみを考えるとか、そういうことは生きるときに大事なことだけど、実際は、いまのことで精いっぱいです。未来のことを考えられない状況はいっぱいあります。
そんな時、「未来の話をしましょう」という一言があることによって、ぱっと目の前が拓けるんじゃないかなと思います。「生きにくくなったらこの一言」みたいな感じかな。
映画では、この一言で全体の話をまとめることができました。
――この映画を観る方に、メッセージをお願いします。
生きる意味みたいなのって、誰しもが考えると思います。
この映画では、それが、親であったり友達であったり、恋人であったり…そばにいてくれる大切な人だということを描いています。
大切なものや人に興味がない人であれば、未来のことを考えるヒントに。
願望ものせた「未来」が、ビジョンとして前に広がっていると、歩いていきやすいなと思う。
映画が、大切なものや人の存在に気づくきっかけになったり生きるヒントになればいいなと思っています。
インタビュー中、小林さんがふと「多分僕自身、青春をうまくやっていなかったというか、失敗しているんです」と話し始めました。
小林さんは子どもの頃、クラスの中で騒いでいるタイプの子どもだったそうです。でも、「一見、楽しく過ごしていたんですけど、仲間を作らないといけないという感じがいやでしたね」と小林さん。昼休みは校庭でみんなと遊ぶこと無く図書館で一人読書をしたりすることもあったそうです。
映画について話を聞く中で、小林さんは「鹿野が小坂に出会い、自分が『心地よくいられる場所』というか、『ここならいられる』というところを見つけたのかなと思います」と語ってくれました。
万人にとって心地よくいられる場所というのは探してもきっとなくて、小林監督の言葉を借りるならまさに「ユートピア」なのかもしれません。
一方で、誰か一人の顔を思い浮かべて発信したものが、多くの共感を呼ぶことが多分にあります。
生きづらさを抱える人に何ができるか? 映画には「寄り添う」ことの意味に向き合わせてくれる魅力がありました。
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