ネットの話題
「ジョーカー」に抱いた「この上ない爽快感」 赤木智弘さんに聞く

映画「ジョーカー」(トッド・フィリップス監督)は、貧困や差別の問題を描いた内容が話題を呼び、ベネチア国際映画祭では最高賞を受賞しました。悪のカリスマの誕生を描く映画について、ロスジェネの代弁者として発信を続けてきた赤木智弘さんは、「この上ない爽快感を味わうことができた」と言います。そして、世にあふれる映画への評価の中には「都合のいいレッテル貼り」があると指摘。それこそが「ジョーカー」が浮かび上がらせた「悪の姿」だと問題提起をします。「『丸山眞男』をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」で注目を浴びた赤木さんに、「ジョーカー」を読み解いてもらいました。
※記事には映画の内容に関する記述が含まれています。ご注意ください。
今回取り上げるのは、日本でもなじみ深いバットマンシリーズの悪役ジョーカーを主役に、いかにしてジョーカーという存在が生まれたのかを描く映画「ジョーカー」だ。
この映画を見る前に、ネット上の評判をいくつか読んだ。
その中でも特に、この話を社会への問題提起だと考える人たちによる「ジョーカーはインセルである」という主張が目についた。
「インセル」とは「involuntary celibate」という不本意な禁欲・独身主義者の略語。「結婚していない白人中年男性」のことであり、「自分たちは白人男性という強い立場であるはずなのに、金もなく家族も持たずに惨めである」というゆがんだコンプレックスから、女性や同性愛者、有色人種といった、歴史的に差別されてきたマイノリティーに対する差別意識を強く持つ人たちのことを指す。日本のネット用語で言うなら「非モテネトウヨ」とでもいうべき存在である。
インセルの存在が社会問題として注目され始めたのは2014年にカリフォルニア州で発生した無差別銃撃事件の犯人がインセルを名乗り、女性嫌悪を全面的に示していたことが大きい。
この銃撃事件の犯人は、同じインセルたちのカリスマとなり、その後もインセルによるテロ事件が発生した。このことから、中年白人で妻や性的パートナーがおらず、殺人を犯し、やがてジョーカーというカリスマに変貌(へんぼう)を遂げる主人公アーサー・フレックを、無差別銃撃事件の犯人と同じような存在だと捉える人がいるようである。
さて、この映画はインセルを描いた作品なのだろうか?
結論から言ってしまえば、ジョーカーはインセルを描いた作品ではない。
アーサーをもしインセルとして描くのであれば、女性や黒人などのマイノリティーに対する憎悪が表現されるはずだ。しかし、作中にそうしたシーンは見当たらない。作中に黒人は出てくるが、アーサーは彼らを普通の人たちとして対等に扱っている。
それどころか同じアパートに住むシングルマザーの黒人女性に恋をするのである。
もちろん「落ちぶれた白人中年男性でも、黒人女性なら相手にしてくれるだろうと考えること自体が憎悪だ」と考える人もいるのだろうが、それはうがち過ぎであろう。
作中において、アーサーを襲うストリートチルドレンを除けば、基本的にマイノリティーたちは「善良でありながらも他人に無関心な人たち」として描かれるのみであり、決してアーサーの憎悪の対象として描かれているわけではない。
では、何が描かれているのか。
それはアーサーが殺した人たちを見ればわかりやすい。
最初にアーサーに殺されたのは、多分裕福な家に生まれたか何かで一流企業に勤められたであろう、存在自体がクソとしか言いようのない、ご立派で頭の緩んだ白人ビジネスマン男性3人組だ。
仕事のボスからクビを言い渡された帰り道。ピエロの格好のままで地下鉄に乗り込んだアーサーは、3人組が地下鉄内で女性に執拗(しつよう)に絡んでいるところを見てしまう。緊張から持病である笑いの発作が起きたアーサーに対し、3人組はいたぶるように絡み、暴力を振るいはじめたところを、持っていた銃で殺してしまうのである。
そして、正体不明の殺人ピエロは「富裕層の白人クソ男どもを殺したヒーロー」として、鬱積(うっせき)のたまった貧困層たちのシンボルとなる。
では、アーサーは富裕層の白人男性だから、憎んで殺したのか?
それも違う。
その後もアーサーは幾人かの人を殺すが、その対象は必ずアーサーに危害を加えようとしたり、見下して利用しようとしたりした人たちだ。彼は自分に明確に危害を加えてきた相手を殺しているのである。
逆に言えば、そうでない人たちは殺していない。特にアーサーに対し、偽りのない真実を告げた、この映画における白人の富裕層代表である「あの男」は、アーサーの手によっては殺されていないのである。
映画を見終わったときに、僕はこの上ない爽快感を味わうことができたが、それはアーサーの殺人がいずれも殺されるに値するクソ野郎を殺すものだったからだ。
もし、彼の殺人がインセルの逆恨みのように、罪なき人々を恐怖に陥れるような殺人であったなら、僕はこの映画を素晴らしい映画だとはみなさなかっただろう。
アーサーが殺すにしろ殺さないにしろ、その動機は極めて個人的なものだ。
そこには社会に対する復讐(ふくしゅう)という意図はない。ただ彼は人々に自分の話を聞いてほしかったし、その存在を認めてもらいたかっただけだ。その彼を社会の人たちは、利己的に利用したり、カリスマとしてあがめ奉ろうとしたりしたのだ。
ジョーカーにて描かれたのは、善良な中年男が人を殺すことを余儀なくされ、悪のカリスマとして人前に立たざるを得なくなった悲劇である。
そしてその悲劇を生み出したのは、貧困と格差を放置する社会システムの欠陥であり、それは富裕層の怠惰と、富裕層に対する憎悪の高まりとして描かれている。これは映画の構図としては非常にシンプルでわかりやすいものだ。
ところがこのメッセージをちゃんと読むことのできない人たち。いわば「話を聞かない人たち」がいた。
僕はここに、この「ジョーカー」という映画が暴き出した、現代社会の「悪」の一つが潜んでいると見ている。
その「悪」とは、アーサーの不幸な境遇を「社会の責任」と理解できず、「彼はインセルだから」と理解するしかできなかった人たちである。
かつてチャプリンが労働者階級の悲哀を描き、権力者を小馬鹿にして笑いを取っていた頃、労働者の不幸な境遇を社会責任とみなすのは当たり前だった。
しかし、現代社会においては不幸な労働階級こそ小馬鹿にして笑う対象になっており、労働者の不幸は自己責任として扱われるようになった。一方で富裕層は「みんなの優しいお父さん」であるかのように親しまれるようになった。
時代は変われど、資本主義における格差という問題は、決して解決していないにもかかわらず、そのような価値観を持った人が増えてしまった。
そうした人たちにとっては、アーサーの不幸には彼個人にまつわる不幸に至るだけの十分な理由が必要だった。そうでなければ彼の不幸が彼自身の責任でないことになってしまい、気持ちが悪い。だから取ってつけたような「インセル」というレッテルを貼ったのである。
最後はネタバレにならないように、映画を見ればピンとくるはずのワードを挙げていこう。
作中で何度か引用されたチャプリンの映画やそのセリフ。しかし、作中でチャプリンの映画を見て笑っていたのは労働者ではなかった。
そして、クライマックスに向かう重要な舞台となる「マレー・フランクリン・ショー」。
アーサーはかつて、偉大な白人男性であるマレー・フランクリンに「実の息子のように扱ってもらえること」を妄想していた。しかし現実にアーサーがこの番組に招待されたときに、アーサーはどのように扱われる予定だっただろうか?
シリアスさが一転し、唐突にコメディー映画のような警備員との追っかけっ子で終わるラストシーン。その状況は本当にコメディーだったのか。単に視点の位置が変わっただけではないのか?
爽快なクライマックスシーンは、誰にとって爽快で、誰にとっては悲劇でしかなかったか。
本当は誰がこの「ジョーカー」という映画を見て楽しんでいたのか。
この映画によって暴かれた「悪」とは果たしてどのような人たちなのだろうか。非常に示唆に富んだ作品であった。
◇
赤木智弘(あかぎ・ともひろ)フリーライター。1975年栃木県生まれ。2007年に『論座』(朝日新聞社)に「『丸山眞男』をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」を執筆。話題を呼ぶ。以後、貧困問題を中心に、社会に蔓延する既得権益層に都合のいい考え方を批判している。最近ではテレビゲームの話題なども執筆中。著書に『若者を見殺しにする国 私を戦争に向かわせるものは何か』(朝日新聞出版)、共著として『下流中年 一億総貧困化の行方』(SB新書)など。
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