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与次兵衛さんの気の毒な人生、関門海峡の悲しすぎる「切腹事件」

関門海峡を見下ろすめかり公園に移設された明石与次兵衛の塔=8月7日、北九州市門司区、山田菜の花撮影
関門海峡を見下ろすめかり公園に移設された明石与次兵衛の塔=8月7日、北九州市門司区、山田菜の花撮影 出典: 朝日新聞

目次

難所として知られる関門海峡は、戦国時代、秀吉も苦しめられました。乗っていた船が座礁。船奉行は責任をとって切腹するという悲劇は、地元でお菓子にもなって伝えられています。明治時代から続く航路整備は、現在も最新の技術で大工事が続いています。天下人さえ困らせた「最大の難所」の歴史をたどります。(朝日新聞下関支局記者・山田菜の花)

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秀吉座礁、責任を取って切腹

ねっとりと甘いあんの表面に、そぼろがびっしり。ふわりとバターが香り、クッキーのように香ばしい。500円玉大の菓子は、ごつごつした岩のようにも見える。三玉家菓子舗(北九州市門司区)のオリジナル銘菓「与次兵衛(よじべえ)」だ。

「豊臣秀吉が座礁した関門海峡の難所を、初代の児玉信が和菓子で表現したんです」。3代目店主の中村宏義さん(73)が教えてくれた。

山口県下関市と北九州市の間にある関門海峡は、九州を迂回(うかい)せずに大陸へ至る海上交通の要衝として古くから役割を果たしてきた。しかし狭くて潮流が速く、浅瀬や岩礁の多い難所でもあった。

1592年、朝鮮出兵のため名護屋城(佐賀県唐津市)にいた豊臣秀吉は、母親が急病との報を受け、大坂城をめざした。ところが最大の難所といわれた「篠瀬」で船は座礁。秀吉は難を逃れたものの、船奉行だった明石与次兵衛は現在の北九州市に上陸し、責任を取って切腹した。篠瀬にはのちに、冥福と航行の安全を願って、目印となる与次兵衛塔が建てられた。

水天門の下に積まれた「太閤石」=9月9日、山口県下関市の赤間神宮、山田菜の花撮影
水天門の下に積まれた「太閤石」=9月9日、山口県下関市の赤間神宮、山田菜の花撮影 出典: 朝日新聞

アイデアマンの初代がお菓子に

気の毒な与次兵衛が菓子になったのは、半世紀ほど前のことだ。

中村さんは地元の中学校を卒業後の1961年、三玉家に就職した。初代店主の児玉さんが21(大正10)年に創業した店に住み込みで働いた。当時の門司港周辺は、石炭などを荷揚げする人たちでにぎわっていた。重労働を担う人々に甘いものが好まれ、一帯には40~50軒もの菓子店がひしめいていたという。

アイデアマンの児玉さんは、ほかの店にはないオリジナルの菓子を売り出そうと考えた。目をつけたのが地元に伝わる秀吉の海難。菓子や料理の知識を生かし、あんにそぼろをまぶして岩の雰囲気を表した「与次兵衛」を考案した。

そぼろの生地にはバターや卵黄を使い、気温の高い夏は扱いが難しい。あんにまぶして更に焼き上げるので、手間もかかる。それでもレシピは当時のままだ。「よその店にないし、まねもできない。門司を離れた人が古里の懐かしい味だと喜ばれます」と中村さん。

三玉家菓子舗の3代目店主、中村宏義さん。初代が考案した菓子「与次兵衛」の味を守っている=9月25日、北九州市門司区、山田菜の花撮影
三玉家菓子舗の3代目店主、中村宏義さん。初代が考案した菓子「与次兵衛」の味を守っている=9月25日、北九州市門司区、山田菜の花撮影 出典: 朝日新聞

実はもうない難所

現在の門司はかつての勢いを失い、菓子組合に所属する店は10軒足らずにまで減ったという。中村さんも後継者が悩みだ。伝統の味はこれからどうなるのか。繊細な和菓子を生み出す両手を見せてもらった。グローブのように分厚かった。

実は、秀吉をも苦しめた難所は、いまはもうない。明治時代に入って航路整備が始まったからだ。全長約50キロの関門航路では、浚渫(しゅんせつ)してかつての水深約6メートルが、現在はおよそ12メートルに。2030年代半ばまでに14メートルにまで掘り下げる。「船に積める貨物の量が現在の倍の4万トンまで航行できるようになる。迂回の解消などで年間約380億円のコスト削減効果がある」。国土交通省九州地方整備局の関門航路事務所はこう算段する。

海翔丸の性能について語る船長の中谷伸一さん=6月18日、関門海峡、山田菜の花撮影
海翔丸の性能について語る船長の中谷伸一さん=6月18日、関門海峡、山田菜の花撮影 出典: 朝日新聞
【動画】関門海峡を浚渫する国土交通省九州地方整備局の海翔丸=金子淳、山田菜の花撮影

今も見守る与次兵衛塔

航路の東側で活躍しているのが、同省が所有する海翔丸だ。船体の最後部に備えた幅約6.5メートルの浚渫装置「ドラグヘッド」で、掃除機さながらに海底の土砂を吸い上げる。船体中央にためた土砂は、北九州空港がある人工島の埋め立てに活用。人を配置しなくてもコンピューター制御で離接岸などができる世界初のシステムを導入し、乗組員28人が24時間態勢で担う。

船長の中谷伸一さん(58)は外国航路の航海士だったが、地元の下関市に戻ろうと30年前に転身した。海翔丸には00年に就航して以来、乗船している。「作業しながらの航海なので、船というより工場みたい」と笑う。しかし、指示するときは真剣な表情だ。進行方向に対して斜めから潮の流れを受けるため、船のかじや速度に神経を使う。「最先端の装備の船で地域に貢献できる。こんなにやりがいのある仕事はない」

関門海峡を見下ろすめかり公園に移設された明石与次兵衛の塔=8月7日、北九州市門司区、山田菜の花撮影
関門海峡を見下ろすめかり公園に移設された明石与次兵衛の塔=8月7日、北九州市門司区、山田菜の花撮影 出典: 朝日新聞

あの与次兵衛塔は、いまは北九州市の和布刈(めかり)公園で静かに関門海峡を見下ろす。天下統一をかけて多くの武将が行き来した難所は、今、経済発展の要として存在し続けている。無念の死を遂げた与次兵衛が現代の航路整備を見たら、何を思うだろうか。銘菓「与次兵衛」を一緒に食べながら、話を聞いてみたくなった。

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