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<金正男暗殺を追う>農村から「アイドル」夢見た「実行犯」
金正男(キム・ジョンナム)氏に毒を塗ったとされるベトナム人のドアン・ティ・フォンさん(31)が、「北朝鮮の工作員」から声をかけられたのは、事件の約7週間前だった。ベトナムの農村で生まれ育った彼女が、マレーシアで正男氏を襲うまでに、いったい何があったのか。本人の供述内容や関係者の証言をもとにたどる。(朝日新聞国際報道部記者・乗京真知、鈴木暁子)
フォンは1988年、ベトナム北部のナムディン省に生まれた。記者が生家を訪ねると、軒先では鶏が駆け、バナナの木が風に揺れていた。
取材に応じた父親のドアン・バン・タインさん(65)は、ベトナム戦争中に負ったケガで右足の足首から先を失っていた。義足で朝夕、近くの野菜市場に繰り出し、清掃員として働くことで家族を養ってきたという。月収は共働きの夫婦2人分で450万ドン(約2万2千円)。ベトナムの平均月収は1人376万ドン(約1万8千円)ほどで、フォンの家族は決して豊かではなかった。古いテレビや家具も壊さないように大事に使っていた。
フォンは5人兄妹の末っ子だった。自宅には、幼さが残るフォンの写真や、学校でもらった賞状が保管してある。継母のグエン・ティ・ビーさん(56)は「優しくて、ネズミや虫も怖がるような子でした」と話す。タインさんは「とても親しみやすい性格で、美しい子です」と語る。
フォンは地元の高校を卒業した後、ハノイの大学で会計を学んだ。実家から仕送りはなく、ハノイ市内の飲食店で会計係をして学費を稼いだ。より稼ぎのいい仕事を求めて、ナイトクラブで接客係としても働いた。ナイトクラブのフェイスブックには、チャイナドレスやビキニを着てポーズを取ったり、客前で踊ったりするフォンの写真が載っている。
ナイトクラブには、誘惑が多かった。友人によると、フォンは「ハンサムな韓国人男性」が好みだった。ナイトクラブに来た韓国人男性とデートすることもしばしば。フェイスブックでは朝鮮半島出身とみられる男性の「友達」が30人ほどいた。男性から「韓国に来れば番組出演の仕事がある」などとささやかれると、その話をうのみにして韓国まで追いかけていくことがあったという。
ただ、出演の機会は、なかなか巡ってこなかった。韓国に行っても仕事はもらえず、旅費も自腹だった。別の友人は「フォンは夢を追いかけるあまり、貯金を使い果たしたり、知り合った男性にだまされたりして、とても心配でした」と語る。
金欠に陥り、家賃の支払いが遅れることもあった。ナイトクラブから数キロ離れた民家の1室を、月約140万ドン(約6700円)で間借りしていた。大家の女性(68)は「フォンは気遣いのできる優しい子でしたが、お金の管理は苦手でした」と語る。
フォンが旧正月に帰省した際には、バス停まで見送った家族が「お金はあるの?」と聞いた。首を横に振るフォンに、家族は40万ドン(約1900円)を握らせ、送り出したという。
それでもフォンは、夢をあきらめなかったようだ。周囲には「私は演技が上手なの」「映画と広告の仕事をしている」と話していた。
2016年6月には、米国発祥の人気のオーディション番組「ベトナム・アイドル」に出演したことがあった。本名ではなく親類の名前で出演し、舞台上で歌声を披露した。放映は20秒ほどで、審査は通らなかったが、胸元を大きく開けた衣装が一部メディアで注目された。
そんな暮らしの中、フォンのもとに、ある仕事が転がり込んできた。「いたずら番組」の出演オファー。持ちかけたのはフォンの女友達(31)だ。その経緯について、女友達はマレーシア警察に次のように説明している。
2016年12月下旬、女友達は自身が営むハノイのバーで店番をしていた。そこに「韓国の撮影会社のカメラマン」を名乗る男が現れ、少し雑談した後、「いたずら番組に出ないか」と出演を持ちかけてきた。
女友達が「幼い息子の世話で忙しい」と断ると、男は「では知り合いを紹介してくれ」と言い、「若い女性」「出演歴は問わない」「飲み込みが早い子がいい」と条件を挙げた。
そこで女友達は、フォンを紹介することに決めた。フォンがかつて「ドラマに出演したことがある」と話していたのを思い出したからだ。「フォンは可愛く、社交的で性格が穏やかだし、何より撮影がとても好きだった」。さっそくフォンに電話し、「女優を探している人がいるんだけど、バーに来ない?」と告げると、フォンは快く応じたという。世界を驚かす大事件に巻き込まれることになるとは思いもしないまま……。
【フォンの故郷】ベトナムの首都ハノイから車で南に2時間弱の位置にある北部ナムディン省。稲作などの農業が盛んな穀倉地帯として知られる。米粉の麺「フォー」の発祥の地としても有名。
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