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「豪太に泣いて説得され…」三浦雄一郎さんチャレンジ断念に見た美学
86歳のプロスキーヤー三浦雄一郎さんが1月、アルゼンチンにある南米大陸最高峰アコンカグア(標高6961メートル)の登頂とスキー滑降に挑戦しました。若い頃から数々の冒険を達成し、70、75、80歳で世界最高峰エベレスト(8848メートル)に登頂して人々を驚かせてきた三浦さん。頂上まであと一歩のところで断念した「86歳の挑戦」に密着した私も、世界の「ミウラ」のすごさを目の当たりにしてきました。肉が大好きで、どこまでも前向きで、頭脳は柔軟。そして、全然、めげない。人間の限界に挑んだ三浦さんの「五つのすごい」を振り返ります。
最初の「すごい」は三浦さんの肉体とそれを支える肉食ぶりです。
高校時代に登山を始めた私はインドのヒマラヤ山脈の未踏峰やペルーのアンデス山脈の約5700メートルの山など、海外の登山歴があります。現在39歳ですが、山登りや山スキーを続けてきました。
三浦さんに初めて会ったのは2018年6月でした。鹿児島県鹿屋市にある鹿屋体育大学で、運動生理学やトレーニング学が専門の山本正嘉(まさよし)教授を取材する時に、山本さんから「三浦さんが大学に来られます」と教えていただいたのです。
鹿屋体育大学には最高で標高8千メートルの状態を作り出せる低酸素室があります。三浦さんは70歳でエベレストに挑戦したときから、トレーニングや体力測定のために定期的に大学を訪れていました。今回もアコンカグアに向けた体力測定が目的でした。
筋力や敏捷性、柔軟性などの測定に立ち会いましたが、年齢を全く感じさせない身のこなしに目を見張りました。後に知った結果によると、筋肉量は80歳のときと同程度。身長を補正した上で比べると、50歳代の一般男性より多いばかりか、鹿屋体育大の柔道や体操のアスリートの数値も上回っていました。背筋力は105.5キロで、60歳代前半並みとされる数値。そんな肉体で臨む挑戦をこの目で見て、多くの人に伝えたいと、18年10月から本格的な取材が始まりました。
そんな肉体を維持している理由は「食」にあります。三浦さんの好物は肉。東京に行きつけのステーキ店があり、「若い頃は1.5キロを食べた」と豪語します。近ごろは「食べる量が減った」と言いながらも、多いときは1~2週間に1回は600~800グラムを食べるそうです。そのときは朝食も昼食も抜いて、「飢えたオオカミ」のような状態で「肉」に備えるというからさらにびっくりです。
アコンカグアへの出発を控えた昨年12月、北海道での最終調整に同行しました。すると、初日の夕食は焼き肉で、2日目の夕食はウナギ。それを喜んで三浦さんは食べていました。
年が明けて迎えた出国当日の1月2日。この日、三浦さんが東京・羽田空港でのフライト直前に昼食に選んだのは焼き肉でした。
フランス経由の長旅を経て、アルゼンチン・メンドサに三浦さんが着いたのは現地時間3日。アルゼンチンと言えば牛肉、さらにメンドサといえばワインが有名とあって、出発前から三浦さんは「肉とワインが楽しみ」と語っていました。だから、もちろん着いた初日の夕食はステーキでした。
その後も肉は続きます。ベースキャンプ(BC)に入る前日の9日まで、レストランなどで食事のメニューを選ぶことができましたが、1日1回は必ず分厚い肉をうれしそうに食べる姿がありました。そして、後に述べるBCでの食生活も肉が中心に。つまり、とにかくアルゼンチン滞在中、肉また肉、そして肉でした。
三浦さんは山での食事について、「体力、持久力が勝負。下界のスポーツと同じで、しっかり食べないと体力が続かない」と語っています。
ベースキャンプでも三浦さんの「すごさ」を見せつけられました。アルゼンチンに着いた三浦さんは徐々に標高を上げて、10日に拠点となるBC「プラサ・アルヘンティーナ」に入りました。標高は4200メートル。富士山より500メートルも高いです。大きな谷の中にあり、南半球の夏にあたる日本の秋から春の間、色とりどりのテントが張られています。
一般的にアコンカグアを登るとき、ふもとから荷物を運ぶには、馬とロバの交雑である「ムーラ」を使います。登山では山をよく知る現地ガイドのサポートが欠かせません。その手配は、専門の業者の力が必要です。
BCの生活もその業者に委ねることになり、三浦さんの遠征隊は「アコンカグア・ビジョン」という業者に頼みました。遠征隊は私を含めると8人。専用に食事用の大きなダイニングテントが用意され、各個人には寝るためのテントもありました。グループ登山では、テントでの集団生活が基本ですが、プライベートの空間も保つことができました。三浦さんは年齢を考慮して、軽い簡易ベッドを持ち込んでいました。
黄色いダイニングテントはドーム形で、中では立って過ごせます。断熱材が使われてガスストーブもあります。未明の外気温は氷点下になりますが、日中のテント内は25度になることもあり、三浦さんが半袖になるほどでした。
食事は3食をスタッフが用意してくれます。ヘリコプターで新鮮な野菜や肉が運ばれていて、毎回おいしい食事でした。食事の時間にダイニングテントで待っていると運ばれてきます。三浦さんは「おいしくて、量もたっぷり。ちょっとしたホテル並みだ」と語っていました。なお、私たちは高山病を防ぐために山ではアルコールは控えていましたが、利用する登山者向けには別料金で用意されていました。
トイレは工事現場にあるようなイメージの小屋です。汚物は小屋の下に設置したドラム缶にためて、処理はヘリコプターでふもとへ運びます。トイレやテントにはジェルタイプのアルコール消毒剤が常置され、衛生面にも配慮されていました。
ソーラー発電で日中は電源が使えます。ダイニングテントにはコンセントがあり、パソコンやカメラ、スマホの充電が可能です。衛星を使ったWi-Fiもあり、私は日々の三浦さんの様子を伝える記事や写真を送るときに活用しました。スマホでラインやツイッターもできました。ただ、写真や動画は送るのにかなりの時間がかかり、多くの人が使う日中は「混雑」するのか、つながりにくいことも多かったです。このため、三浦さんたちが寝静まった夜中、テントの中で寝袋に入りながら、ヘッドランプを頼りに作業をする日もありました。
水は氷河が解けだして流れてくる水をホースで引いており、日中は蛇口をひねると使えました。さらに、昼間の限定的な利用になりましたが、温かいシャワーまでありました。
想像以上の快適さではありましたが、86歳の三浦さんに合わせて、「セレブBC生活」を送っていたわけではありません。南米最高峰とあって欧米各国から多くの登山者たちがBCを訪れており、同じ環境で過ごしていました。
そして、三浦さんは心臓に持病を抱えています。不整脈の手術歴は7回を数えます。実は、日本を出発する直前も、少し歩くだけで胸に苦しさを感じていたそうです。それでも、BCに入ると、生き生きとしていました。「山は1番のホスピタル」と語り、山に入ると元気になると事前に聞いていたのはその通りでした。
快適と言っても、不便な山の中であることに変わりはありません。BCでも高山病が悪化して下山する人もいます。医師が常駐しており、私を含む全員が診察を受けました。実際、血圧が高いと指摘されてBCより上に行くことを許されず、そのまま下山する人にも会いました。
三浦さんはそうした過酷な場所でも、コンディションをしっかりと整え、そして山を楽しもうという明るい姿勢でした。これには長年の経験が大きいと言えます。テント内はいつも笑いにあふれていました。なお、私はBCに滞在した取材だったので、1月10日から計10泊11日を過ごしました。日本で高所に備えたトレーニングをしていたこともあり、高山病になることも、体調を崩すこともありませんでした。
肉体面の「すごさ」が目立ちますが、実際の登山では戦略家としての顔ものぞかせました。
アコンカグアやヒマラヤのような高所登山では、「高度順化」が必須です。標高5千メートルで酸素の量は平地の6割。もし、三浦さんでも「どこでもドア」で急に行ったら、たちまち高山病になるでしょう。高山病は頭痛や吐き気などが自覚症状から始まり、体調によっては標高1500~2500メートルぐらいで発症する人もいます。重症化すると、肺水腫や脳浮腫を起こして、命を落とすこともあります。このため、例えば標高4500メートルまで登ったら、4千メートルに下りて泊まる、のように、いったん高いところに行っては下る、という行動を繰り返しながら、徐々に体を高所に慣らしていくのです。
ただ、当然登り下りをすれば、体力を消耗します。日本で標高500メートル程度の山でも、登って下りるだけでも、疲労はたまります。今回の計画を立てるにあたっては、86歳の三浦さんには厳しいとの判断がありました。
そこで考えられた「三浦さん登頂プラン」はできるだけ体力を温存することです。まず、BCまでは歩いて3日の距離をヘリコプターで入りました。
さらに現地でガイドと相談した結果、BCから標高5580メートル地点までヘリで飛ぶことになりました。これは慣れたパイロットにとってもチャレンジでした。その標高まで人を運び、かつ安全に下ろすことは簡単なことではなく、事前にパイロットやBCに常駐する医師らを交えた会議も開かれました。
これらのプランは当然、三浦さんを交えて協議しました。三浦さんは遠征隊の「隊長」です。遠征隊の登攀リーダーを務めた倉岡裕之さん(57)やガイドらの意見を踏まえ、最終決定するのは三浦さんでした。提案を柔軟に受け入れ、86歳の自分自身がどうすれば登頂できるかを考えて、決断をしていました。
ヘリコプターを使うことには「それでも登山ですか?」という疑問を持つ人もいるかもしれません。でも、富士山(標高3776メートル)を考えてみてください。多くの人が標高2千メートル以上の5合目まで車で入り、そこから登ります。一方で、ふもとから時間をかけて登る人もいます。どこから登っても「登頂した」には変わりはないでしょう。ロープウェーがある山を下から登るのかどうかも、登山をする人次第です。
倉岡さんはアコンカグア登頂歴が13回を数えます。その倉岡さんに意見を聞くと、「そもそも登山とは自然を相手にした『遊び』です。どんな手段を選ぶかは登山者の自由です」という答えが返ってきました。
今でも思い出すのは登頂断念の情報が伝わったときの瞬間です。準備を重ねてきたプロジェクトに下された「下山」という判断は重いものでした。
万全の戦略で三浦さんがヘリでBCを出発したのは1月18日の朝でした。次男豪太さん(49)を含む遠征隊5人は前日に出発していました。ヘリを下りた三浦さんは豪太さんたちと合流すると、快調に歩いて標高約6千メートルのプラサ・コレラに着き、テントで宿泊。このまま順調にいけば、21日にも登頂できるのではないかと思われました。
私とロジスティックス担当の貫田宗男さん(68)はBCに残りました。三浦さんが登頂すれば、BCからヘリでふもとに向かい、下山する三浦さんを迎える計画でした。
ところが天気予報が急に変わり、三浦さんは同じ場所で2日間過ごすことになりました。アコンカグアではビエント・ブランコ(白い嵐)と呼ぶ強風が登山者を苦しめることが多いですが、その強風の予報が出ていました。
そして、いよいよ三浦さんが再び出発すると思った20日、BCに「三浦さんがドクターストップで下山」という連絡が入りました。突然のことに私は絶句して、頭は真っ白。青天の霹靂とはこのことでした。事態をのみ込むのに時間がかかりました。
後にわかったのは、遠征隊の一員として同行する医師が「これ以上標高を上げれば、心停止の恐れがある」と判断したからでした。三浦さんは国内のトレーニングのときから、脈拍や血圧を測りながら登山をしてきました。BCでは調子が良かっただけに、「なぜ」という疑問と、「せっかくここまで来たのに」という残念な気持ちが交錯しました。もちろん、登山なのであらゆる事態を想定し、途中の撤退もありえることでしたが、このタイミングは想像していませんでした。
三浦さんの下山が決まったので、私も速やかに下りることになりました。同行記者の使命として、早く三浦さんから直接話を聞いて、記事を送りたい。その一心でした。
ただ、風の強い日中はヘリが飛ばないので、BCから身動きがとれません。しばらくすると、三浦さんの方が一歩早くふもとに下り、車で3時間かかるメンドサに向かったという情報が入りました。時間だけが過ぎていきました。
このままBCにもう1泊か。そう思っていたら、急に「10分後にヘリが飛ぶ」と、スタッフがテントに駆け込んできたのです。お世話になったスタッフに「Muchas gracias!」(どうもありがとう!)と言うと、バタバタとヘリに乗り込みました。でも、メンドサのホテルに着いたのは日付が変わる頃。その日は再会できませんでした。
迎えた翌21日朝。どんな表情だろうか。やつれているのだろうか。色々なことを考えながら、三浦さんの部屋をノックしました。すると、「おはようございます」。表情はすっきりとしていて、至って元気です。そして、下山について聞くと、「納得はいかなかったけど、豪太に泣いて説得された」と淡々と語りました。冷静に現実を受け止め、受け入れた姿勢には三浦さんの美学を見た気がしました。
最後の「すごさ」は、帰国を待たず次の挑戦を考え出していた三浦さんの前向きさです。
メンドサのホテルで下山をめぐる思いについてさらに聞くと、「今回は余力を残した。標高6千メートルで余裕があったから、90歳でエベレストの山頂をめざしたい」と堂々と宣言しました。
この前向きな姿勢には驚かされました。三浦さんは70歳から5年刻みで挑んだエベレスト登山はすべて成功でした。若い頃は富士山のスキー直滑降、エベレストの標高8千メートルからの滑降など、危険を承知の冒険を重ねてきました。大きな遠征としては、珍しく「失敗」に終わった形でした。それでも、全く落胆した様子はなく、目を輝かせて夢を語ってくれたのです。
これこそ「プロだ」と思いました。三浦さんに昨年秋、インタビューで肩書について聞くと、「職業はプロスキーヤー」という答えでした。冒険家とも登山家とも自らは名乗りません。病気を抱えている弱みもさらけ出しながら、プロとして自分の生き方を見せる。それが三浦さんでした。
とはいえ、「90歳でエベレスト」は決して簡単な道のりではありません。今回の撤退の背景には、90キロを超す三浦さんの体がありました。たくさん食べるからこそ、86歳とは言えない肉体がつくられていたのですが、同時に体重が増えていました。
5月23日、80歳でエベレスト登頂を達成した日からちょうど6年を迎えました。この日、三浦さんは大阪市で旅行会社が主催する講演会に招かれ、私も同行記者として対談しました。三浦さんと会うのは3月以来でしたが、その後に実は脳梗塞で一時入院していたと知り、びっくりしました。それでも、この日は顔色も良く、元気な姿。「ゆっくり一歩ずつ治していきたい」と全く動じる様子はありません。
そして、改めて次の目標を聞くと、「90歳でエベレスト」と明言。「どこまで行けるかわからないが、最低ベースキャンプまで行きたい。たどりつけるなら頂上を目指したい。気持ちだけはそう思っている」と述べ、決意は揺らいでいません
3度のエベレスト遠征に同行し、父を支えてきた豪太さんは今後の課題を減量と指摘しています。まずは来年、欧州最高峰のエルブルース(標高5642メートル)、その次にヒマラヤの6千メートル峰などを登り、体調を見ながら進めるプランを描いています。今年10月で87歳になる三浦さん。90歳でエベレストに挑むのは2023年春でしょう。まだまだ私たちを驚かせてくれる冒険が続きそうです。
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