話題
慶応出てトラックの運転手に……稼いだ金で通う「消えゆくムラ」
繁華街で信号を待っているときに、派手なトラックを見かけたこと、ありませんか? 慶応高校から慶応大学へ進み、そうした宣伝広告用トラックの運転手になった若者がいます。東京で稼いだお金で通うのは、群馬県にある小さな村です。南牧村。なんもくむら、と読みます。人口は60年間で5分の1になり、1875人。高齢化率は62%と全国一です。海外メディアからは「消えゆくムラ」と呼ばれています。若者はそこで「できるだけ長く続けたい」と話す活動をしています。さて、いったい何をしているのでしょう?
話は若者の街、東京・渋谷から始まります。
若者は、よくこの街で宣伝広告用トラックに乗り、スクランブル交差点付近を低速でうろついています。
主張の強すぎる外装の車両から、宣伝対象が爆音で連呼されるおなじみの光景。
いったいどんなひとが運転しているんでしょうか?
「私です」
え!?
「まさに、ああいう車を運転しているんです」
元気に答えるこの若者が、今回の記事の主人公。名前は古川拓さん。24歳。
「車を運転するのが好きなんですよ。あと、ひとを観察するのも」
なるほど。って、違う。渋谷と「消えゆくムラ」の関連性がわからない。
もらった名刺をよく見ると、こう書かれています。
「大学を卒業後、フリーターをしています。趣味は旅行、トラックの運転、カホン、DIYなど」
そして、こう続きます。
「誰もが第二第三の故郷を持つ時代を夢見て、全国各地で活動中」
月8回ほどトラックで稼いだお金で古川さんが通っているのが、「消えゆくムラ」なのです。
やっとつながった……。
渋谷をうろつくトラックのドライバーが、「消えゆくムラ」に行くと、大学の事務局長になります。大学名は「なんもく大学」です。
もちろん、正式な大学ではありません。でも、どこの大学よりもたぶん、キャラが立っています。
2014年末から「開校準備」を始め、2016年5月に「正式開校」しました。村に通っていた会社員の女性が発起人で、現在、フェイスブック(FB)の登録者は1千人を超えています。
いったい何をしているのか? 活動のテーマは「幸せな村が100年続くためのアクションを仕掛ける現代版寺子屋」。壮大です。
メンバーは月1回程度、FBの募集に応じて現地に泊まります。地元の祭りの手伝いをしたり、メープルシロップづくりなどの体験学習を企画したり。学生たちの宿泊先でもある「キャンパス」は、村民が貸し出してくれている古民家です。
「50~60回程度はなんもく村に行きました」と古川さんは言います。
古川さんが、なんもく村と出会ったきっかけ。それは東日本大震災でした。
震災発生時、古川さんは慶応高校の生徒。
「じぶんも何かしたい」
そんな思いで、仲間とともに、高校生が主体の復興支援団体を設立。現地を訪れてボランティアをしたり、募金活動をしたりしました。
その際に泊めてもらった宮城県石巻市のカキ漁師が深夜、こう言ったそうです。
「震災があろうがなかろうが、もう、このまちは限界だったんだ」
ひとが減り、産業が衰え、まちが縮む。首都圏で育ってきた古川さんにとって、その事実はあまりに衝撃的でした。
「いまの日本社会は極めてアンバランスなんです」と古川さん。
「タワーマンションが建ちまくってる武蔵小杉駅では、朝、改札の入場制限をやってるんです。地方の自治体の人口と同じぐらいのひとが、そこに集中しているわけですよ」
言葉が熱を帯びます。
「だれが、だれを支えているのか。それがいまの日本ではとても見えにくい。食卓に並ぶ米や野菜は、ほとんど地方からきています。ただ、地方の状況を都心の多くのひとが知らないんです」
震災後、各地の自治体を訪ね歩く中で、なんもく村の存在を知ったという古川さん。
「45都道府県でいろんな自治体を見てきましたが、これほど山だらけの自治体はなんもく村が初めてです」
この村にスーパーマーケットはなく、商店も数えるほど。古川さんが村を訪れる際は、隣町で買い出しをします。契約しているauの電波状況は極めて悪い。それでも、自宅のある横浜市戸塚区から3時間以上もかけて訪ね続けています。
いったいなぜ?
その理由は、古川さんの危機感にあります。
「首都圏で大きな地震が起きたとき、ぼくを助けてくれるのは、これまで地方で出会ってきたひとたちだと思います。遠い親戚のようなひとを何人つくれるかって、今後、だれにとっても大事になるはずです」
古川さんはなんもく大学から「生きる力」を学んでいるといいます。
「じいちゃん、ばあちゃんの知恵。思いやり、支え合い、強いコミュニティーをつくることです」
村の住人たちから、「住んでみれば」と何度言われたことかわかりません。ただ、いまはまだ、その気にはなれないそうです。
「ある程度距離を置いているからこそ、いい関係でいられると思うんです。期待が大きくなりすぎると、それに応えるためにやりたくないことをやる必要性が出てくるので。もちろん、いつか住んでもいいと思えるようになるかもしれませんが」
なんもく大学のゴールはどこにあるのでしょうか?
「特に数値目標は設けていないんです。村おこし、というものでもないし。人口をこれだけ増やしたいとか、そういうのは特に。ただ、一つだけ決めていることがあります」
ふむふむ、なんでしょうか。
「できるだけ長く、続けることです」
そんな古川さんに触発され、なんもく村に暮らし始めた男性がいます。佐藤祐太さん。古川さんと同じ24歳です。
「古川が考えていることを、村の中で実行していきたい」と言います。
佐藤さんは卒業を間近に控えた立教大の学生です。以前はアナウンサーをめざしていました。全国の50局ほどエントリーしましたが、全滅してしまったそうです。
将来に迷っているそんなとき、「なんもく大学」を知ります。村を訪れ「住みたい」との感情がめばえます。
そして昨年7月、埼玉県所沢市から自転車で村へ。
居候、村の貸し出している古民家での仮住まいを経て、10月から「地域おこし協力隊」の一員になりました。
村営アパートの家賃は2万円。「道の駅」などで働いて、月に16万円ほど稼いでいて、貯金もできています。
いまの生活は、いかがですか?
「すごい楽しいです!」
即答、でした。
川での魚の捕り方、花の名前、野菜の漬け方……。日々、勉強をしながら、「生を実感しています」。
「フツーの会社員になって、フツーに結婚して、フツーに家を建ててって、そんなじぶんにはなりたくない」
きっぱりとそう言います。だから、この村でなにができるか、どこまでできるか。じぶんの可能性を試したいと考えているそうです。
そんな佐藤さんですが、村暮らしを、SNSなどで積極的に発信しています。「1万人が見てくれて、1千人が好きになってくれて、そのうちのたった1人でもこの村に住んでくれたら、それがじぶんの価値だと思っています」
私がなんもく村に出会ったのは、人口減少の取材がきっかけでした。
急激なスピードで人口減が進む村に足を運んで思ったのは、「20年、30年後の存続は厳しいかもしれない」ということでした。村はそれほどに疲弊し、住民の多くが将来への不安を口にしていました。
古川さんには村に取材に行く前に会ったのですが、「いわゆる『意識高い』若者かなあ」という疑念が先行していました(申し訳ありません)。
そんな私の認識が変わったのが、古川さんの口から出た「遠い親戚」という言葉を聞いた時です。
渋谷で稼いだお金で「消えゆくムラ」に通い、「遠い親戚」を増やす。
それが仮に自分のためであっても、「外の目」を提供し続けることは、きっと村の財産になります。
渋谷はいま、駅前再開発の真っ只中です。
高いビル、たくさんの人、あふれるモノ。
「多い」ということが、さらに多くの人を引きつけます。
でも、古川さんや佐藤さんのモノサシは、ちょっと違います。
日本のアンバランスさを認識し、そこに居心地の悪さのようなものを覚え、じぶんたちにできることを、できる範囲で、背伸びも萎縮もせず、楽しんでやる。
そんな彼らの生き方、現実逃避だと思いますか?
再び渋谷。
「じゃあ、これからなんもく大学の会合なんで!」
取材が終わると、緩くウェーブした髪をなびかせながら、古川さんはそう言って渋谷の雑踏に消えていきました。
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