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「ゴミの島」とは言わせない 権力と闘った住民が語る、成功の秘密
「ゴミの島」と呼ばれてきた島があります。瀬戸内海に浮かぶ、香川県・豊島(てしま)。不法投棄された大量の廃棄物を撤去しようと、島民は闘い抜きました。この島でいったい何が起こったのか。住民リーダーの一人で、「もう『ゴミの島』と言わせない 豊島産廃不法投棄、終わりなき闘い」(藤原書店)を3月に出版した石井亨さん(58)に話を聞きました。
ーー豊島事件で問われているのは「私たち一人一人だ」と主張されています。どういう意味ですか。
「豊島事件では、大量生産・大量消費・大量廃棄という効率を求める社会の中で排出された大量のゴミが、過疎の島に押しつけられました。そういう意味では、国民一人一人のライフスタイルが問われたと言えます」
ーー香川県は業者の不法投棄を黙認しました。
「そもそも、住民は業者に産廃処理の許可を与えることに反対でした。経営者が、金もうけのためなら何をしでかすかわからない人間だったので。それに対し、当時の知事は『住民の反対は事業者いじめであり、住民エゴである。豊島の海は青く空気はきれいだが、住民の心は灰色だ』と言い放ちました」
「1978年に業者は『ミミズの養殖』のため、食品汚泥など無害物を持ち込むという約束で、県から許可を得ました。しかし実際には、車の破砕くずや廃油など、大量に不法投棄し、野焼きをしました。集落には、煙が漂い、中にはせきが止まらなくなる住民もいました」
「住民は、県に指導するよう再三求めましたが、無視されました。住民が担当課に行って、あの煙が見えないのかと迫ると、横を向いて、『見えません』と。さらに県は、業者が持ち込んでいるのは廃棄物ではなく、『金属回収の原材料』と詭弁(きべん)を言い出します」
ーーなぜ県は実態を把握しながら、黙認したのでしょうか。
「供述調書の中で、県の職員は『経営者の暴力を恐れた』との趣旨の発言をしています。怖くて指導ができなかったのでしょう。無責任、事なかれ主義という行政の体質だと思います」
ーー1990年に兵庫県警の強制捜査で不法投棄は止まりました。
「大量のゴミが残りました。住民は県などに撤去を求め、1993年に公害調停を申請しました。勝ち目のない闘いでしたが、『なんとか一矢報いたい』との思いでした。一方で、県は責任を否定し、『安全宣言』を出し、ゴミを放置しようとしました」
ーー森永ヒ素ミルク中毒事件も担当した中坊公平弁護士に弁護を依頼しました。
「中坊さんは、『あんたらは何をするんや』と住民に問いかけました。他人任せにするのではなく、自分たちの問題として、何ができるのか。覚悟が問われました」
ーー石井さんの覚悟とは。
「運動に専念するため、養鶏の仕事を断念しました。飼っていたヤギを処分する時、ヤギが私の目をじっと見つめていたのが忘れられません」
ーー県との間に調停が成立するまで、7年もかかりました。
「県はなかなか責任を認めようとしませんでした。行政は間違えることはないという、『行政の無謬(むびゅう)性』です。住民は世論を味方につけるため、銀座で豊島の廃棄物を展示したり、県内100カ所以上で座談会を開いたりしました。県議会に住民の声を直接伝えるため、県議選に私が立候補して、当選もしました」
「私たちの運動は、県知事に『お金ほしさでしょ』と非難されることもありました。県は住民の運動が怖かったと思います。『あいつらは、違法行為はしないものの、何をしでかすかわからん』と。住民運動への世論の支持の広がりが、県にプレッシャーになったと思います。2000年、調停が成立し、知事が住民の前で謝罪しました。廃棄物は、隣の直島に運ばれ、無害化処理されることになりました」
ーーなぜ、住民運動は成功したのですか。
「島民一人一人が当事者として成長し、自分事として取り組んだ結果だと思います。高齢者が多く、『孫のために、一矢報いたい』との思いも強かった。孫の代に『じいちゃん、ばあちゃんたちは、いったい何をしていたんや』と非難されたくなかったわけです」
「ただ、平時は必ずしも住民が一つにまとまっているわけではありません。廃棄物という外敵が島を攻めてきたから、『みんなで闘おう』となっただけです。現実には、運動の過程で、島民からの誹謗(ひぼう)中傷がありました。人間関係に悩み、運動から去っていった人もいます」
「『住民運動をしたい』と言う他県の人たちの相談も受けてきましたが、私はいつも『運動は苦しいし、勝てる見込みもないからやめたほうがいい』と言います。私に言われたくらいで、『じゃあ、やめよう』となるくらいの覚悟なら、はじめからしないほうがいいですから」
ーー石井さんは2010年に島を去り、ホームレスのような生活を送り、昨年また島に戻りました。何があったのですか。
「2007年に県議選に落選し、議員の職を離れました。当時47歳で、全財産は千円を切っていました。行政とけんかした過激な人間としてすり込まれている中で、就職先が決まりませんでした。高松で仲間と小さな会社をつくりました。当初は島から高松へ船で通勤していたのですが、2010年に豊島が瀬戸内国際芸術祭の会場の一つとなり、観光客が島に押し寄せ、船に乗って通勤することができなくなってしまいました」
「島を離れた後、肩書は社長でしたが、生活の実態はホームレスでした。生活保護を受ける知り合いの家に行って、風呂や洗濯機を借りたり、眠ったりしました。その後、ソーシャルワーカーとして働きましたが、島への思いがつのり、昨年戻りました」
ーー豊島の事件の教訓は何ですか。
「豊島事件は、日本が循環型社会を目指すきっかけとなり、自動車リサイクル法が成立するなど環境政策の面では教訓は生かされたと思っています」
「もう一つの教訓は『人々よ、当事者たれ』ということです。行政はシステムでしかない。ミスをしても責任を持たない。一人一人が結果に責任を持ち、立ち上がるしかないということです」
「便益を受けるものと、リスクを負うものが分離してはいけないと考えています。分離すればするほど、加害者は当事者意識を失い、構造的な暴力となって被害者に襲いかかります。豊島に捨てられた廃棄物の中で最も多かったのは自動車の破砕くずでした。それをつくるのは、自動車企業です。そして、自動車に乗っていた人たちは、豊島の住民の苦しみを知りません。無関心こそ、最大の暴力になりうるのです。福島原発の事故も同じ構造で、私たち一人一人が原発を黙認した結果だと思っています」
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