お金と仕事
五輪代表になれても抱えた「不満」 朝日健太郎さんに訪れた「爆発」
朝日健太郎さん(42)は、1990年代後半から2002年にかけて、「ライジング・サン」のニックネームで男子バレーボール界をリードしてきました。熊本県内の進学校を志望していた中学校時代、バレーの道を選ぶまで「ギリギリまで悩んだ」と振り返ります。その後、順調にキャリアを重ねますが「大きな失敗をしたことがない」という「悩み」もあったそうです。そんな中、起きた「爆発」とビーチバレーへの転向。転職が当たり前になった時代、朝日さんにとっての「セカンドキャリア」を聞きました。
小学生の時に身長は175cmあり、今は199cmです。「背が高い」ということは何につけても最大の強みだと思っています。両親はそこまで大きくないのですが、祖父は180cmほどあったので、高身長なのは遺伝かもしれません。
元々は体が大きいだけで運動は苦手でした。運動コンプレックスを克服したいと思い、小学生の時に周りがしていたサッカーを始めてみることにしたんです。
でも、屋外なので寒かったり暑かったり、時には膝をすりむいて流血するので嫌になりました。全然上手くなかったですしね。ただ、そこで運動自体を辞めようとは思いませんでした。
中1になり、何か違うスポーツで運動コンプレックスを解消したいと思ったところ、たまたま目についたバレーボールをしてみようと思いました。バレー部の練習は週に2~3回で、スパルタとは程遠かったです。
運動より勉強のほうが断然好きな内向的なタイプだったので、成績は10クラスある学年の中で常に上位一桁台でしたよ。ごく一般的な家庭に育ち、両親からは「勉強も運動もバランスよく」という教育を受けました。
中学3年で身長は約190cmに。成長のスピードがとても速く、昨日はピッタリだった学生服が、翌日にはきつくなってしまったこともありました。ここまでくると、「身長がどこまでも伸び続けるのでは……」という恐怖をも感じるようになりました。
高校受験が近づいてきた中3の冬。志望校は地元の熊本県有数の進学校に絞っていました。しかし、その年の12月に「第4回全国都道府県対抗中学大会」というバレーボールの全国大会があり、僕は熊本県代表に選ばれてしまいました。
受験勉強のまっただ中だったので、そのオファーを断わったところ、「190cmも身長があるのに、何を言っているんだ!」と先生に言われて(笑)。「自分の受験のほうが大事なのに……」と思いながらも、しぶしぶ了承したんです。
結果的に、この大会で全国的に注目され、全国の学校からバレーでの推薦入学の打診を受けるようになりました。親には進学校に行ってほしいと言われる中、15歳にして全国から推薦をもらったことの高揚感もありました。
進路の選択はとても難しくギリギリまで悩みましたが、最終的にはバレーの道を選びました。そして、熊本市内のバレー強豪校の私立鎮西(ちんぜい)高校に入学するのですが、あの時なぜこの選択をしたのか、この年齢になってようやく説明できるようになりました。
当時の心境を振り返ると、バレーの道を選んだ理由は「勉強より競争人口が少ないバレーで勝負した方が勝っていけるのでは」と思ったからだと感じています。バレーボールという限定枠のほうに希少価値を感じ、その中で高みを目指そうと思ったんです。
そうして高校から本格的にバレーを始め、3年間どっぷり漬かりました。でもポイントは、ゴール設定を「勝利」や「日本一」にはせず、「高みを目指すこと」、つまり「自己成長」としました。バレーはあくまでその手段として捉えていたんです。
プレッシャーのかかる目標だと疲れてしまうので、ゆるい上昇志向をこの頃から大切にしていました。その考えはどこから来るのかと考えた時、両親からは「1番を取れ!」など言われた記憶がないんですね。
「人として、礼儀正しく、かつ努力をし、なだらかな曲線で良いから成長してほしい」という親の思いが意識の中にあったのかもしれないです。
高校はもちろん部活がメインでしたが、要領よく勉強もしていました。塾には通わず、参考書のみで3年間学年で成績トップをキープし続けたのは、ゲーム感覚で勉強をしたからかもしれません。
法政大学にスポーツ推薦で入学するタイミングで上京し、一人暮らしを始めました。僕は、バレー、家事、家計簿など全部きちんとこなしながら比較的平凡な生活を送っていたことを記憶しています。
その一方で、僕に足りないのは豪快さ、破天荒。武勇伝というものがないんです。それはそれで寂しいんですよね(笑)。
良くも悪くも、一定の境界線は超えたことはなく、大きな失敗もしたことがありません。また、たまたま体が大きかったというだけで目立つ存在となり、日本代表のバレーボール選手としても世間から注目を受けて順調に生きてきました。
ファンサービスにも配慮していました。例えば試合中にブロックが成功した時、「どこの観客席に向けてガッツポーズをしたら喜んでもらえるか」を冷静に見て、選んでいましたから。
振り返ると、実はその中にフラストレーションがあったと感じます。高い水準の結果を求める応援に、自分の気持ちがついていかなくなりました。
やはり僕がバレーをしているルーツは、「自己成長」だった。バレーにおいて結果を出すことではなかったんです。その心がないまま戦い続けてきたので、次第に周囲と自分の本心のギャップに苦しむようになりました。
そして2002年の26歳の時、自分の中で爆発が起こりました。ビーチバレーへの転向です。同じ日本代表だった元リベロの西村晃一さんに声をかけてもらったのがきっかけでした。
心がアンバランスの中、代表としてオリンピックを再び目指すのは厳しいと判断し、バレーボールを辞める道を選びました。あの時、西村さんに手をグイッと引っ張ってもらってなかったら、ビーチバレーには行っていなかったと思います。
バレーボールというくくりでは同じ競技でも、ゼロから始めるスポーツになるので、自分の中ではとても大きなジャンプアップでした
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