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ゴミ扱いされたキャラ「アンペルマン」が、ベルリン名物になれた理由
ドイツの信号機で使われている「アンペルマン」をご存じですか? 信号機(アンペル)から名付けられた、ちょっと太めの男性です。帽子をかぶり、今にも歩き出しそうにつま先をあげる緑の「進め」。思い切り両手を広げた赤の「止まれ」。ほかの国の無機質な信号機とは違い、その愛らしい姿はとても印象的で、キャラクターを使ったグッズはベルリン名物となっています。ところが、かつては粗大ゴミとして扱われていた時期もあったそうです。いったい何があったのでしょうか。(朝日新聞ヨーロッパ総局長・石合力)
アンペルマンが生まれたのは1961年にさかのぼります。旧東ドイツの交通局に勤めていた交通心理学者カール・ペグラウさん(1927~2009)がデザインして生まれました。
第2次世界大戦後の冷戦で、ドイツが東西に分裂していた時代です。ベルリンは西部をアメリカ、イギリス、フランス、東部をロシアが分割占領していました。
占領下でもベルリンだけは東西の行き来が自由でしたが、この1961年の夏、東ドイツ(ドイツ民主共和国)によって突然、西ベルリンの周囲を取り囲む形で「ベルリンの壁」が建設されます。
その後、1989年に崩壊するまでの28年間、ベルリンは東西分断が続いたのです。
東ドイツは社会主義国家。ペグラウさんはアンペルマンをデザインする際、帽子をかぶった姿が金持ちや資本主義のイメージで受け止められないか心配したといいます。
結局、当時の東ドイツの指導者ホーネッカー議長が夏に帽子をかぶったことがあり、問題にはならなかったそうです。
アンペルマンと同い年の1961年に生まれ、西ドイツにあったシュツットガルト郊外の大学で工業デザインを学んでいたマルコス・ヘックハウゼンさん(56)は学生時代、友人らと訪ねた東ベルリンで初めてアンペルマンを見たときのことをよく覚えているといいます。
当時、西ベルリンから東ベルリンに入るには、1日ビザを取って、検問所を通過する必要がありました。
西側に比べて経済発展が遅れていた東側は街全体が薄暗く、すべてが灰色に見えたそうです。その街でひときわ目立っていたのが緑と赤のアンペルマン信号機でした。
「東ベルリンのアレキサンダー広場でこの信号を見かけたとき、なんてすばらしいやつなんだと思ったよ」
ユーモアにあふれるそのデザインは、がんじがらめの東の体制とは異なる印象を受けたといいます。
ヘックハウゼンさんはその後、イタリアで工業デザイナーとしてのキャリアを積み、1995年にベルリンに仕事の拠点を移します。1989年のベルリンの壁崩壊からまだ6年。翌1990年に東西ドイツが統一するなかで、その首都となったベルリンでは、旧東側も含めて、信号機が西側のものにとりかえられているところでした。
アンペルマンの信号機が粗大ゴミとして放置されているのを見て、衝撃を受けたといいます。信号機が傾き、アンペルマンが広げた両手が斜めに傾いているものもありました。
「魅力的なデザインで、太めのキャラクターは西側の信号機より識別しやすいのに」
その頃、旧東ドイツにいた人たちの感情も複雑でした。初めは統一を喜んだものの、実際に暮らしてみると、貧しく発展の遅れた東側の人たちは、まるで2級市民のような気持ちを抱くようになります。
統一したことに後悔の念を抱く人も少なからず出てきました。
ヘックハウゼンさんは、東ドイツだった地域の交通局と連絡を取り、処分されるアンペルマン信号機を無料で譲ってもらい、信号機のガラス部分を使って星形のランプを製作しました。
信号機を集めるために使ったのがトラバントという車です。東ドイツの国民車として親しまれた車ですが、ベンツなど世界の自動車産業の最先端を行く西ドイツ車とは比べものにならない粗末な作りで、当時、ただ同然で手に入れることができたそうです。
その屋根に積んで集めたアンペルマンを再利用した壁掛けランプを1996年に売り出すと、3カ月で約300個も売れました。
「東の人々のためになればという思いで作りました。もちろん、デザイナーとして成功したいという気持ちもあったのですが……」
緑色のランプの周りの部分には、東側にいた人を応援したいという気持ちを込めて英語でこう書きました。「キープ・オン・ウォーキング」(歩き続けよう)。赤のランプには「ドント・ストップ・ミー(私を止めないで)」
ランプ製作をきっかけにヘックハウゼンさんは、アンペルマンの生みの親で旧東ベルリンに住んでいたペグラウさんとも知り合うことになります。そして、アンペルマンを使ったキャラクター商品を作ることを相談して、信号機以外の商標権を取得することになりました。
なぜ信号機で商標権を取らなかったのでしょうか。
それは、アンペルマン信号機を東西統一後のドイツでふたたび普及させたいと考えたからでした。
2人は芸術家や行政を巻き込んでアンペルマン信号機の復活運動に乗り出します。トラバントとともに旧東ドイツへの郷愁、オスタルギー(東を意味するオストと、ノスタルジーを組み合わせた造語)の代表例だったアンペルマンの行方はメディアの注目も集めました。
ベルリン市は2005年、アンペルマン信号機を公式の信号機として採用することを決め、市内の信号機はアンペルマンへと生まれ変わることになったのです。
いまでは市内の信号機の9割がアンペルマンになったといいます。
優れた西側の製品が統一後の街を席巻するなかで、アンペルマンは東側の製品のなかで過去の遺物にならずに使われ続け、統一ベルリンのシンボルへと生まれ変わったのです。
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