お金と仕事
五輪決まっても入社します 元フィギュア選手、中野友加里さんの幸せ
平昌五輪女子フィギュアでは、15歳のザギトワ選手が金メダルに輝きました。世界で戦う女子選手は10代が中心で、引退は20代前半が一般的だと言われます。元世界選手権日本代表の中野友加里さん(32)は18歳でスランプになりながら、大学、大学院でも選手を続けました。引退後はテレビ局の社員という道を選びます。転職が当たり前になった時代、「中途半端ができない自分を受け入れた」という中野さんに、セカンドキャリアの作り方について聞きました。(ライター・小野ヒデコ)
始めてスケート靴を履いたのは3歳でした。兄がアイスホッケー、姉がフィギュアスケートをやっていたので自然な流れで滑るようになったのがきっかけです。6歳で本格的に選手を目指し、気づいたらスケート漬けの日々でした。
朝6時から練習があるときは、学校の後も、母が車で迎えに来てスケートリンクに直行。片道1時間かかる中、車中でも上手な選手の演技をビデオで見るのが日課でした。学校の宿題は休憩時間にしていましたね。
高校3年の時に成長の伸び悩みを感じるようになりました。同じ環境で練習をしていても成長しないのだろうと薄々気づいていたんですが、気持ちの踏ん切りがつかず……。
その時、母が早稲田大学人間科学部eスクールに進学することを提案してくれたんです。インターネット環境があれば、いつどの場所でも授業が受けられて、レポートを提出できるので、海外遠征も可能でした。
スクーリング(通学)もあるため、場所は大学に少しでも近い方が良いと判断し、生まれ育った愛知県を初めて離れることになりました。私にとっては一大決心でした。
環境を変え、コーチをお願いしたのが(浅田真央さんらを指導してきた)佐藤信夫コーチでした。それまで、私は365日スケートの練習を休んだことがなかったのですが、まず言われたことは「週に1度は休む」ということだったんです。
練習しない日があると影響が出ると思い、最初は休むのが恐怖でした。さらに、休みに何をすれば良いかわからず戸惑っていました(笑)。
それでも少しずつ、映画やショッピングに行くようになりました。休日の使い方がわかってきましたが、ショッピング中もファッションの流行を見ながら「次の衣装はこのデザインを取り入れよう」とか、映画中も「この曲はスケートで使えるかも」などと考えてしまうこともありました。
結局引退するまで休日でもスケートを忘れることはできなかったのですが、違う視点からスケートを見られるようになったのは大きかったです。
気が付くまで時間がかかりましたが、休みを楽しみに1週間過ごすことの大切さを知って、そういう指導をしてくださったコーチと出会えたことが、私のスケート人生を大きく変えました。
1年目は変化を感じられず、焦るばかりでした。でも、諦めずに佐藤コーチを信じて練習を続けていたことで少しずつ状況が変わっていきました。
佐藤コーチに師事してから2年目で如実に成績が変化し始めたんです。自分でも「変わった」と思えるようになりました。
一番スランプに陥っていたときだったので、環境の変化が本当に大きな転機になりましたね。
私は自分にスケートの才能があると思ったことが正直ないのですが、「努力するのも才能」と佐藤コーチに言われて。その言葉が、スケートをする上でも、大学を卒業する上でも大きな支えになりました。
性格上、中途半端というのができない。常に100%で取り組んでしまうので、やるならやる、やらないならやらないというタイプなんです。
20歳の時に「ベテラン選手」と呼ばれたのですが、女子フィギュアスケーターの現役引退は大学卒業時の22歳前後が一般的です。
私は22歳だった大学4年の時に絶好調でした。まだまだやれると思い、大学院進学を決意し、勉強しながらスケート続ける道を選びました。
ところが、その向こう2年間がものすごく苦しくなってしまって。成績は下降し、ケガも増えていきました。ケガすると練習を休むことになり、その結果、筋力が衰え、次に練習しようと思うと体力的にも厳しくなっていきました。
過去の自分に追いつかず、ジレンマに陥っていきました。2009年、2010年は本当に苦しかったですね。
24歳を迎えた時、もうスケート人生は長くはないだろうと思っていました。どれが最後の試合になってもいいと思い臨んだ最後のシーズンでした。
スケート引退後の人生について考えた時、振付師や技術的なことを教えるコーチなど、色々な道はありました。
本当に迷ったのはプロスケーターですね。でも、いつまで滑れるかわかりません。あとは、解説者やタレントになったとしても、それがいつまでできるかわからないなどの不安が残りました。
私が大切にした価値観は「安心感」「安定感」だったので、正社員の道は絶対でした。長く働ける場所を考えた時、小さい頃からずっと好きなテレビの仕事をしてみたいと思っていたんです。
就職に関してはひとりで決めたのですが、「スケートしかやってこなかったあなたが働けるわけない」、家族や知人からは反対を受けました。でも、自分の道は自分で決めることは譲りたくありませんでした。
そして、スケートとは別のもう一つの夢だった「テレビ局に入りたい」という思いに従って、就職活動に臨みました。
就活では、マニュアルや面接時の回答例などに捉われず、自分の意見や意志をしっかり表すことを意識していました。面接者の方は「フィギュアスケートの中野友加里」という名前を知っている上での面接だったので、特別な視点から見られることもあったと思います。
でも、「スケーター・中野友加里」ではなく、違う面もあることを知ってもらおうと思いました。その時は五輪選考会のかなり前だったので、「もし五輪が決まってメダルを獲った場合、他の道もたくさんあるのでは?」という質問がありましたね。
その際は、「どんな状況になっても、たとえ五輪が決まったとしても、入社できたらテレビ局の一員として働きます。頑張ります」という意思表明をしっかり伝えました。
そして、縁あってフジテレビに入社することができたのです。
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