連載
#4 東京150年
ファストファッション・ゾゾタウン…激増する衣服、自由がゆえの苦労
江戸が東京へと改称されて今年で150年。この間、衣服は量も種類も激増しました。その変化は私たちに何をもたらしたのでしょうか。主に「男物」から考えました。(朝日新聞記者・川見能人)
年末も押し迫った南青山のサロン。東京都武蔵村山市の自営業石田滋一さん(32)が、真新しいコートに袖を通した。定期的に通って服装のアドバイスを受けたり、服を買ったりしている。婚活のためだ。
「第一印象を上げようにも服に興味がなく、選び方も分かりませんでした」。量販店で品定めしても、種類が多すぎて迷うばかり。でもここに通い始めてからは、着こなしに自信が持てるようにもなったという。
ファストファッションの台頭などで、多種多様な服を以前よりも安価で手に入れられるようになった。この四半世紀、国内での年ごとの衣類の供給量が、ほぼ倍増したとの統計もある。
一方で、このサロンを営む服装コンサルタント会社「ライフブランディング」の吉田泰則社長(40)は「服装の平均レベルが上がり、気をつかう必要も増した」と指摘。自由であるがゆえの新たな苦労も生まれている、とみる。
この150年。戦時中を除き、日本では服装の選択肢が広がり続けてきた。
出発点は明治初期に、軍服や制服に洋装が採用されたこと。「脱亜入欧」を欧米にアピールするとの政治的な理由や、機能性の高さなどが後押ししたとされる。和服にコートを羽織るなど和洋折衷の服飾文化を生みながら、民間にも徐々に普及し、大正末期~昭和初期には洋装を着こなすモボ・モガ文化も出現した。
戦後の大きな動きの一つは、ファッションブランド「VAN」創業者の石津謙介氏(故人)が、米国東部の名門大生の服装を採り入れた「アイビールック」を提案したこと。カジュアル路線を打ち出した1960年代以降、若者らにも大きな影響をもたらした。
中でも、こうした服装に身を包んで銀座・みゆき通りに集まった若者たちは「みゆき族」と呼ばれ、東京五輪があった64年の話題をさらった。石津氏の長男・祥介さん(82)は「当時はまだ珍しい格好で、仲間を求めて集まった。でも迷惑に思う地元の人もいて、苦情もあったね」。
やがてジーンズやTシャツが定着。DCブランドの隆盛、渋カジの流行など、服飾文化は多様化し続けている。
インターネットで服を買うことも珍しくはなくなった。無数の店と服が並ぶ手元の画面を指させば、翌日には商品が届く。昨年11月には衣料品通販サイト「ゾゾタウン」が、着るとサイズを測ってくれるボディースーツの無料配布を発表。コーディネートを手助けするアプリも生まれ、利便性は日々、進歩し続ける。
一方で、自由になり続けてきたと単純には言えない、と指摘する人もいる。
学習院女子大の増田美子名誉教授(日本服飾史)は、戦後のメディアとアパレル産業の発達に着目。流行は以前より早く、そして広く伝わるようになったと指摘する。出回る服もそれに沿ったものが大半。「ひとたび流行遅れになると、実際にはほとんど着られないし、流行以外のものは手に入れるのも難しくなる。仕掛けられた流行という、枠内での自由なんです」
130年近く銀座に店を構える「高橋洋服店」の4代橋純さん(68)は「便利に買い物できる反面、その場限りでの売ったり、買ったりも多いのでは」とみる。「本当に欲しいもの、似合うものを知り、見つけるのはますます難しくなっていると感じる。プロによる対面販売の重要性は、高まっていると思うのです」
あふれる衣服に日々更新される情報や流行。その中で自分らしさを知り、表現するのは簡単ではない。高まり続ける便利さの一方で、私たちはそれをどう使いこなしていくのだろう。
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