お金と仕事
ネオン街から女の子が消えた…銀座のママと振り返る「平成30年史」
平成の約30年間で、世の中はめまぐるしく変わりました。日本有数の繁華街・銀座では、クラブのママがお客に誘われ「ちょっとハワイまで」ゴルフに出かけていたバブルを経験。不景気になると自宅まで取り立てが来たことも。地価はジェットコースターのように乱高下し、企業の交際費は右肩下がり。1990年代半ばに3千件弱あったクラブやバーなどは、半分以下に減りました。早大在学中に老舗クラブのママになり、銀座でクラブやバーなど計4店舗を経営する白坂亜紀さん(51)と、銀座の変化について振り返ります。
ーーバブル期の1987年に東京・日本橋のクラブで、女子大生ママになられていますね。
飲めば仕事が決まるいう状態で、何億円という取引が目の前で決まっていきました。明け方まで飲んでそのまま会社に行き、その日の夜にまた店に来る、そんなお客さんがたくさんいました。
ーー銀座4丁目の地価はいまの1.5倍でした。お客さんのお金の使い方も派手でしたか。
アフターの後にお客さんから、タクシー代と言われて渡されたティッシュに5万円が包まれていたことがありました。俺と付き合えということか……と戸惑い、先輩に相談したところ、もらっときなさいと言われました。お客さんにゴルフを始めましたとお伝えすると、パスポートある?と言われ、一緒にファーストクラスでハワイに。ハワイは、今でいう熱海に行こう、という感じでしたね。
ーーバブル崩壊後もしばらくは中央区のバーやクラブの店舗数は増えています。街の雰囲気はどうでしたか。
バブルの余韻が残っていましたね。この熱狂はおかしいというお客さんは2割で、8割はノリノリでした。日本橋の店をやめて96年に独立し、銀座に店舗を構えましたが、客足が良く、3カ月後にもう1店舗をオープンしました。ただ、しばらくして、銀座からかわいい女の子がいなくなっていったんです。
ーー何があったのですか。
多くのクラブでは、お客さんのツケは女の子が背負うルールがあります。景気が悪くなり、支払いが滞るお客さんが増えたことで、人気のある女の子の借金が増え、別の仕事を求めて銀座を去っていきました。
ーー2000年前後にITバブルがありました。客層に変化はありましたか。
ITや外資系金融など、それまでにない業種のお客さんが来るようになりました。40歳以下で年収は1億円を超え、戸建ての家があり、高級車を乗り回している、そんなお客さんが多くいました。新たに来られたお客さんでクラブがいっぱいで、昔からのなじみのお客さんが店に入れず、他のお店に行って、席が空くのを待っていたこともありましたね。
ーーちょうどその頃に日本料理店をオープンされていますね。
無担保で融資するという銀行の広告を雑誌で見て相談に行ったところ、計3行から1億円を借りることができました。店を立ち上げるときに銀行からお金を借りるのに苦労した経験があったので、「水商売ですが良いのですか?」「女ですが良いのですか?」と聞くと、支店長から「いまは決算書を見て判断していて、そんな古くさいことは言いません」と笑われました。それがリーマン・ショックの後、急に「水商売とは取引できなくなりました」と言われたんです。
ーーまさに、手のひら返しですね。
「貸します、貸します」が「返せ、返せ」に変わりました。融資の条件が変わったと言うので、おかしいと言いましたが通じませんでした。ある銀行の担当者からは「20歳で出会ってあなたが好きだと言ったとする。20年後に再会した40のババアに、あなたあのとき愛していると言ったじゃない、と言われているようなもんだよ」と言われました。自宅に毎日のように取り立てに来られ、死んで返すしかないと思い詰めました。
ーークラブの客足はどうでしたか?
通常、休み明けはお客さんが増えるのですが、その年のゴールデンウィーク明けは客足が鈍かったんです。銀行に行ったら、「金融業界のお客さんはいますか?」と聞かれました.サブプライムローンが危ないですよ、と。ゲリラ豪雨も重なり、お客さんが徐々に引いていくのを感じていました。ただ、9月にリーマン・ショックが起きてから、年末までは逆にクラブは盛況だったんです。
ーーどうしてですか?
企業は四半期ごとに予算を組んでいて、交際費も決まっています。これから景気が悪くなるという不安を打ち消すように、みなさん飲んでいました。景気と客足があっておらず、どこか気持ち悪さがありました。そして、年が明けたら街中がシーン……。そこから2年間はまさに地獄でした。女の子をリストラしたり、保険を担保にお金を借りたり。ようやく光が見えてきたところで東日本大震災が起きました。銀座はなくなれというメールが来たり、クラブの扉に「非国民」と書かれた貼り紙が貼られたりしました。その年の秋まで銀座の街からネオンの明かりが消えました。
ーー最近の景気はどうですか。
安倍政権が誕生してから、お客さんが明るくなりました。景気は気分、期待もあったんでしょうね。株でもうけたという個人のお客さんも増えました。ただ、企業はもうかってはいるものの、実感がないというお客さんの声も聞きます。企業のトップと話をすると、いまは土台を固める時期と言います。バブル崩壊、リーマン・ショック、震災をへて、この30年の経験から、備えへの意識が強いんですね。その意識は、来年ぐらいまでは変わらないのではないかと感じています。
ーー銀座に店を構えられて20年余り。景気の荒波を乗り越えてこられたいま何を感じますか。
いつ何時どんなことがあるかわからない。バブル世代は成功体験が多く、なんとかなると思っています。商談すれば必ず決まる、営業すれば必ずお客は来てくれる。ところが、いざ景気が悪くなると、親しいお客さんでも、電話にさえ出てくれないときがあった。ITバブルで来たお客さんはバブルがはじけ、来なくなりました。どんなときも気に懸けてくれるような関係をお客さんと築いていくことが大切だと感じています。銀座のクラブの平均寿命は6カ月とも言われます。ケーキのデコレーション部分も大事だけど、スポンジ部分がないと、銀座で生き残っていくことはできません。
ーー今後、夜の銀座はどう変わっていくでしょうか。
クラブという形式の店が減っていくと思います。
ーーなぜですか。
ルールがわかりづらいからです。キャバクラは1時間何千円とわかりやすい。クラブは時間制限はない。でも満席のときに、新しいお客さんがきたら席を空けないとかっこ悪い。女の子とは疑似恋愛が基本で、外国人はもちろん日本人も最初はわからない人が多い。そうした美意識を通いながら学んでいくんです。日本文化のようなものですね。
銀座にいまクラブは約300件あると言われてますが、クラシックなクラブは100件前後と言われています。多くのクラブはママが引退し、1代限りで終わります。でもそれではもったいない。老舗企業のように、伝統を積み上げ、若い人にどんどん任せていき、私がいなくなっても2代、3代と続くようなクラブを目指していきたい。それと同時にクラブという文化も後世に残していきたいです。
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【略歴】白坂亜紀(しらさか・あき) 1966年生まれ。早稲田大在学中に東京・日本橋の老舗クラブのママとなる。現在は銀座でクラブ2店舗、和食料理店、バーの計4店舗を経営する。銀座社交料飲協会理事、銀座ミツバチプロジェクト理事として銀座屋上での農作業、養蜂に取り組む。近著に『銀座の流儀「クラブ稲葉」ママの心得帖』(時事通信社)。
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