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リオ・パラリンピック閉会式の「東京は夜の七時」 小西康陽の思いは
ミュージシャンの小西康陽さんに「音楽とスポーツ」をテーマにインタビュー。野球に夢中になった少年時代や、東京・札幌オリンピックの思い出など、意外なエピソードが次々に飛び出しました。
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ミュージシャンの小西康陽さんに「音楽とスポーツ」をテーマにインタビュー。野球に夢中になった少年時代や、東京・札幌オリンピックの思い出など、意外なエピソードが次々に飛び出しました。
リオ・パラリンピックの閉会式で、「東京は夜の七時」が使われた音楽家の小西康陽さん。実は野球少年だったという小学生時代や、札幌オリンピックを生で観戦した思い出、市川崑監督の映画「東京オリンピック」「第50回全国高校野球選手権大会 青春」に受けた衝撃など、「音楽とスポーツ」をテーマに話を聞きました。
――子どもの頃に夢中になったスポーツは。
ずっと体育が苦手だったんですが、小学4・5年生ぐらいでなぜか野球に目覚めまして。川上巨人の時代、ONがいて、末次(利光)や柴田(勲)、黒江(透修)もいて……。新聞のスポーツ欄の「ホームラン十傑」「打率十傑」みたいな記事を、毎日スクラップしていました。
1968年に日米野球でセントルイス・カージナルスが来日して、その頃が自分の野球ブームのピークでしたね。残念ながら野球少年だった期間は本当に短くて、69年からは音楽に目覚めてレコードを買うようになるんですけど。
――野球少年だったとは意外です。
自分でも意外です(笑)。
――著書『ぼくは散歩と雑学が好きだった。』には、「神宮球場で野球を観ながら飲むビールも最高だ」「スポーツ観戦にビール、と考えたら頭の中でカウント・ベイシー楽団の演奏が鳴り出して止まらなくなった」とありますね。
大学生以降、友達とたまに神宮球場に行っていた時期があったんです。でもそれはビールを飲むのが目的で、勝っても負けてもいいでしょ、という感じでした(笑)。
――市川崑監督が高校野球を追いかけた「第50回全国高校野球選手権大会 青春」のDVD化にあたって、推薦文を寄せていらっしゃいます(8月2日発売予定)。市川監督というと「東京オリンピック」が有名ですが、高校野球も撮っていたのですね。
作品の存在は知ってたんですけど、今回商品化されるということで初めて見て、感激しました。映画に出てくる高校野球の50回大会があったのは、ちょうど僕が野球に夢中になっていた1968年。唯一、テレビで見ていた大会だったことも大きかったです。
――試合のシーンでジャズが流れるなど、音楽の使い方が印象的です。
音楽は誰だろうと考えながら見ていて、最後のクレジットに山本直純さんの名前があったので、「ああ」と腑に落ちました。「男はつらいよ」をはじめ、素晴らしい映画音楽を残している方です。
山本さんは森永エールチョコレートの「大きいことはいいことだ」っていうCMにも出ていて、60年代に子どもだった僕ら世代には特別なスター。日本で最も有名な音楽家だったんですよ。
「青春」では、センスのいいウエストコースト・ジャズをさりげなく使ったりして、「湿度」を減らしています。市川監督や脚本家の一人である谷川俊太郎さん含め、ヒューマニズムど真ん中の精神を持ちながら、あえて少しズラしている。そのセンスがすごい。
「巨人の星」とか「あしたのジョー」とかスポ根全盛の時代に、「感動」をうまく外しているんですよね。市川さん自身は野球大好きな人だったはずなんですけど。なので、熱心な高校野球ファンがこの映画を見たら、少し戸惑うかもしれません。
――「東京オリンピック」の方はどうご覧になりましたか。
とにかく、あの映画は素晴らしいですよ。外国人の観客を映したシーンとか、選手や競技ではない何げないショットに魅力を感じます。バート・スターンの「真夏の夜のジャズ」のような趣がありますね。
市川さんには、「東京オリンピック」で得たノウハウをもう1度どこかで試したい、という作家としての思いがあったはず。そういう意味でも、高校野球は格好の題材だったんじゃないでしょうか。
――1964年の東京五輪は、リアルタイムでも見ていたのですか。
よく聞いてくれました。僕はもともと札幌に住んでいたんですが、幼稚園の頃に家庭の事情で東京のおばの家に引っ越してきて。東京五輪の開会式は、おばさんの家のテレビで見たんです。競技場の空に風船がバーッと飛んでいく様子を、ハッキリ記憶しています。
その日の朝ご飯まで覚えてますよ。サイの目に切った食パンに、前の晩の残りのカレーをかけて食べて、リプトン紅茶を飲んでね(笑)。肝心の試合はウエイトリフティングやバレーボールぐらいしか覚えてないんですけど。
1964年のオリンピックは、ピチカート・ファイヴにとってもめちゃくちゃ大きかった。ラスト・アルバムの「さ・え・らジャポン」は、ジャケットからして東京五輪のポスターのパロディーですから。なかの写真で僕と野宮(真貴)さんが着ているのも、日本選手団と同じ赤ブレザーですし。
――オリンピックとは浅からぬ縁があるわけですね。
ええ。中1の時に札幌に連れ戻されるんですけど、その冬にあったのが1972年の札幌五輪なんですよ。クラスの友達に「チケットがあるから一緒に行かない?」って誘われて。
だから、笠谷(幸生)のジャンプ、肉眼で見てます。70メートル級ジャンプで、日本勢が金銀銅メダルを独占したんです。記録が出た瞬間、みんな一斉に立ち上がりましたからね。帰り道、できたばかりの地下鉄に乗って家路についた覚えがあります。
――昨年のリオ・パラリンピックの閉会式では、東京大会への引き継ぎセレモニーのなかでピチカート・ファイヴの名曲をアレンジした「東京は夜の七時-リオは朝の七時-」が流されました。
とてもうれしいことでした。ロンドン・パラリンピックのイメージフィルムに感動して、奥さんと「パラリンピックっていいよね」という話をしていたので、オリンピック以上にうれしかったですね。いい親孝行にもなったと思います。
――椎名林檎さんの「返詞」として歌詞が変更され、ボーカルも野宮さんではなく浮雲さんが担当しました。
音楽を担当する椎名林檎さんと何度もやり取りを重ね、ああいう形に落ち着きました。
――アルバム「なぜ小西康陽のドラマBGMは テレビのバラエティ番組で よく使われるのか。」には、「スポーツ行進曲」のリミックスが4パターン収録されていますね。
僕にとってスポーツって、テレビのいい時代の思い出と一緒なんですよ。
「スポーツ行進曲」はもともと、日本テレビのプロレス中継やプロ野球のナイター中継に使われていて。日テレのドラマ(「戦力外捜査官」)の仕事で「応援歌的な曲を」と依頼されて、最初に思いついたのがこの曲でした。作曲者を調べたら、映画「東京オリンピック」で音楽を手がけた黛敏郎さんだったんです。話がつながりましたね。
――小西さんは過去のインタビューで、ピチカートの音楽の特徴を「生活感のなさ」と評しています。なんとなくスポーツ的な身体性とは相いれないのかな、とも思っていたのですが。
僕は音楽って大きく分けてふたつあると思ってるんです。ひとつは1人で聴くための音楽。そしてもうひとつが、みんなで聴くためのダンスミュージック。ダンスは身体性と結びついているものなので、そんなに遠いものではない気がするんですね。
そういえば以前、デューク更家さんがテレビに出た時に、僕がリミックスしたジェームス・ブラウンの曲を使ってくれていて、すごくうれしかったんですよ。だから、野球チームやスポーツチームの音楽とか、ぜひ僕に依頼してください。なにせ、パラリンピックで使われた曲をつくった男ですから(笑)。
〈こにし・やすはる〉 1959年、札幌生まれ。作編曲家。1985年にピチカート・ファイヴとしてデビュー。2001年の解散までリーダーを務めた。監修するコンピレーションCD「エース2」が9月13日にリリース予定。著書に『これは恋ではない 小西康陽のコラム 1984-1996』(幻冬舎)、『ぼくは散歩と雑学が好きだった。 小西康陽のコラム1993-2008』(朝日新聞社)など。
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小西さんが出演するトークイベント「市川崑の60年代レア作品『青春』をフィルムで観てから、『黒い十人の女』の頃の話もしてしまう会。」が7月14日夜に東京の有楽町朝日ホールで開催されます。第1部の映画上映が18:30~20:10、第2部のトークは20:10~21:00の予定です。特製Zine付きで参加料金は2500円。申し込みは12日まで。
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