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服飾評論家・大内順子さん死去 「ファッションは人の全て」
ファッション評論家の大内順子さんが亡くなった。モデルからファッションジャーナリストに転身、世界各地のコンクール審査員を務めた。その原点には、上海での多文化生活、戦争、そして突き抜けたポジティブさがあった。
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ファッション評論家の大内順子さんが亡くなった。モデルからファッションジャーナリストに転身、世界各地のコンクール審査員を務めた。その原点には、上海での多文化生活、戦争、そして突き抜けたポジティブさがあった。
ファッションジャーナリストの大内順子さんが10月30日、川崎市の自宅で亡くなった。80歳だった。
テレビ東京の服飾情報番組「ファッション通信」での、大きなサングラス姿やナレーションが印象に残っている人も多いだろう。
大内さんは1934年、中国・上海生まれ。青山学院大在学中からモデルに。その後、ファッションジャーナリストの第一人者として、世界各地のコンクール審査員を務めるなど活躍した。01年には仏政府文化勲章を受章している。
そのエネルギッシュな活動の原動力は、上海での終戦前後の体験と、戦争への強い嫌悪、そして突き抜けたポジティブさだった。
生物学者だった父親は、上海のフランス租界にあった自然科学研究所に勤務していた。そばの研究者用アパートに家族は住んでいた。
広大な敷地で、門には頭にターバンを巻いたインド人の門番がいた。大内さんは親しみを込めて「インドさん」と呼んでいたという。
「中には広い庭があって、池があって、藤棚があって、テニスコートがあって、子供の遊び場には滑り台があって、お砂場があって…」。そんな豊かな暮らしのなかで、感性を育んだ。
「わたくしの中には、上海時代ののどかな生活がしみこんでいる」と語る。
ところが、太平洋戦争の終盤の44年、日本の敗色が色濃くなると、生活が一変した。
小学校3年生のときに、母親と二つ年上の姉と3人で、神戸に帰国。子供心に「またすぐに上海に戻れる」という気楽な気分だったという。
しかし、神戸に着いたらすぐに東京の家に帰るつもりが、「空襲がひどいから無理だ」と、大阪の叔父のところに身を寄せたのち、岡山に疎開。上海での家族4人ののどかな生活から一転、父親と離ればなれになり、東京にも戻れず、地方を転々とする。
大内さんは、「わたくしが、戦争や戦いに強い嫌悪感を持つのは、きっとこの頃の体験によるのだと思います」と語っていた。
そのためか、大内さんには、突き抜けた達観とポジティブさがあった。
「いつもやりたいことがいくつもあって、熱中してそれに取り組んで、順番にかなえていっている。だから年齢を意識したことがありません」
01年には、ホームページを開設。新たな時代の情報発信に意欲的だった。
「私はファッションを服だけでなく『人にまつわるすべてのこと』だと考えている。私自身、娘1人を育て、孫もいる。福祉や育児、教育にも興味がある。でも誰も私に福祉の話を取材に来ないし、教育についての原稿依頼も来ないでしょう? ホームページは心の中でふつふつしていたものを実現したという感じね」
常にファッションを楽しむ気持ちを大切にし、自らアイテムをプロデュースした。
「夢中になっているといえば、モノづくりもそう。トレンドの最先端を追いかけるのは10代20代で、年配の人が追いかけても、必ずしもすてきとは見られない。だから、年配の女性が美しく見える眼鏡や靴を作りたいと思ったの。眼鏡のフレームは大きめにして肌の欠点を隠し、レンズの色も顔色が元気に見えるように配慮して。靴も楽でスラリと見えるものをと思っています」
幼い頃から多文化の中で過ごし、帰国後の疎開と家族の離散、そして、世界各国で華々しい活躍を残した生涯。
02年に、こう語っている。
「先日友人と、『もし今死ぬとしたら、最後にどんな言葉を残したいか』という話題になりました。私は『いろいろありがとうございました』という言葉しか思いつかなかった。いつも、今が満足なんです」