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ノーベル賞の中村修二教授、直談判し研究費「青色LED絶対売れる」
ノーベル賞に決まった中村修二・米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授。会社員時代、社内の風当たりが強い中で研究を続け、青色LEDの発明に行き着きました。特許についても、裁判を通じて一石を投じていました。

ノーベル賞に決まった中村修二・米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授(59)は、社内の風当たりが強い中、固い信念で研究を続け青色LEDの発明に行き着きました。社員が発明した特許についても、裁判を通じて一石を投じた研究者でした。
不可能と言われた技術、「絶対に売れる自信」
青色LEDの原型が生まれたのは、1993年初めのことでした。80年代には「20世紀中には実用化しない」と言われた技術。中村修二教授は「製品化すれば、絶対に売れる自信があった」と信じて研究を続けました。
利益出ない苦境、それでも研究続行
中村教授の研究は困難を極めました。新製品を作っても利益は出ず、社内では厳しい立場に置かれました。上司には「会社の利益をお前が全部開発につぎこんでいる。責任をとれ」と言われたこともあったそうです。

クビ覚悟で「やらせて下さい」直談判
1987年、クビを覚悟で当時の社長に「青色LEDをやらせて下さい」と直談判しました。社長から「ええわ、やれ」と数億円の開発費を出す承諾を取り付け、社内の研究者とともに研究を続けました。

青色レーザーや白色LEDを製品化
中村教授が発明した技法によって、簡易な青色LED作りに成功。1993年には、さらに明るい「ダブルへテロ」という構造のLEDの材料結晶も製品化しました。日亜化学工業は青色レーザーや3原色を重ねた白色LEDを製品化。中村さんは2002年にベンジャミン・フランクリン・メダルを、11年にはエミー賞(技術工学部門)を受賞しました。


対価求め訴訟、企業研究者の「功績」に一石
発明の対価をめぐっては、退社した日亜化学を相手取って2001年に訴訟を起こしたことでも知られます(05年に和解)。これは、企業研究者の「功績」について社会に一石を投じた動きでした。

中村さんが発明時に勤めていた「日亜化学工業」を相手取り、提訴したのは2001年のこと。当時、発明特許は企業の財産というのが常識で、会社勤めの技術者が受け取る対価は数千円から数十万円程度。発明時に日亜が出した報賞金も2万円だった。
サラリーマン技術者が「正当な報酬」を求めて裁判を起こすこと自体が驚きを持って受け止められ、企業活動の中での発明という成果の正当な配分のあり方が議論を呼んだ。中村さんの提訴後、億単位の発明対価を求める技術者が続き、企業の間でも報酬制度を見直す動きが広がった。
<中村修二氏の略歴>愛媛県の旧瀬戸町(現伊方町)生まれ。徳島大工学部卒。同大学院修士課程修了後の1979年に徳島県阿南市の化学メーカー日亜化学工業入社。93年に青色発光ダイオード、95年に紫色半導体レーザーの開発に成功。99年末で日亜化学工業を退社し、00年2月に米国へ移住した。