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あの聖火走者が死去 2度目の東京五輪前に残した言葉
原爆が投下された1945年8月6日に広島で生まれ、東京五輪開会式の聖火リレー最終走者として、聖火台に火をともした坂井義則さんが亡くなりました。五輪に平和への夢を重ね、「五輪の意義を伝えるのが一生の仕事」と語っていた坂井さんの言葉を紹介します。
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原爆が投下された1945年8月6日に広島で生まれ、東京五輪開会式の聖火リレー最終走者として、聖火台に火をともした坂井義則さんが亡くなりました。五輪に平和への夢を重ね、「五輪の意義を伝えるのが一生の仕事」と語っていた坂井さんの言葉を紹介します。
原爆が投下された1945年8月6日に広島県三次市で生まれ、19歳で東京五輪開会式の聖火リレー最終走者として、聖火台に火をともした坂井義則さんが10日、脳出血のため69歳で亡くなりました。五輪に平和への夢を重ね、「五輪の意義を伝えるのが一生の仕事」と語っていた坂井さんの言葉を紹介します。
1964年10月10日、NHKアナウンサーが「最大の演出家、それは人間でもなく、音楽でもなく、それは太陽です」と実況する好天の東京。早稲田大1年だった坂井義則さんは聖火リレーの最終走者として、7万人の観衆に見守られながら、国立競技場を走った。
自身も陸上400メートルで五輪を目指していたが、代表選考に漏れた。しかし、組織委はそのフォームの美しさと原爆の日に生まれたというメッセージ性から、聖火台への点火という大役に抜擢した。
しかし、坂井さんが1964年の東京五輪で最も印象に残っているのは、自分が主役だった開会式ではなく、観客の一人としてその場にいた閉会式だったという。
それぞれの国を代表して戦ってきた選手たちが、みな笑顔で手を振り合いながら入場してくる。
坂井さんは、大学卒業後、テレビ局に入社し、スポーツ報道の分野で五輪に関わりつづけた。どこに行っても「聖火リレー最終走者」という呼び名はついて回ったという。敗戦から立ち上がった日本を国内外に示した64年東京五輪には、それだけのインパクトがあった。
核兵器や平和の問題についても、求められれば発言した。聖火走者として感じた、日本中の平和の夢を大切にしたかったからだ。
昨年、2020年東京五輪開催が決まったことを、心から喜んでいた。
次男の厚弘さんもスポーツ中継の道で、五輪報道に関わり、その長女の名前は聖奈ちゃん。由来はもちろん、聖火だ。親子3代での五輪観戦を楽しみにしていた。
記者(古田)はこれらの引用のうち、2009年12月の記事を担当していた。平和の祭典としての五輪の魅力を語った最後に、坂井さんはこう言っていた。