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話題

錦織圭、テニス全米で準優勝 松岡修造の助言は「俳優になれ」

 テニスの錦織圭は、4大大会「全米オープン」の男子シングルス決勝でマリン・チリッチ(クロアチア)に敗れました。日本人の初優勝はかないませんでしたが、快挙です。少年時代からの軌跡と彼の言葉で振り返ります。

全米オープンで準優勝した錦織圭
全米オープンで準優勝した錦織圭 出典: ロイター

目次

 錦織圭選手(24)が、テニスの4大大会「全米オープン」の男子シングルス決勝でマリン・チリッチ(クロアチア)に敗れました。
 日本人初の優勝こそかないませんでしたが、歴史に名を刻む快挙。錦織選手の少年時代からの軌跡とその言葉を振り返ります。


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家族と地元の支えで始まったテニス人生

JR松江駅から車で20分。雪が残る郊外の住宅地に、2階建ての圭君の実家があった。地元では、錦織選手の実家というよりは、イチロー選手の妻・弓子さんの実家がある場所として有名だ。
アエラ、2008年3月3日
遠縁ではあるが、錦織の曽祖父と渡の祖母がきょうだいだという。
週刊朝日、2012年8月3日
母方の縁戚に渡哲也(67)、渡瀬恒彦(64)がいる。
週刊朝日、2009年3月27日
 圭君がテニスを始めたのは5歳のころ。実家、松江市の父親、清志さん(51)は森林土木の技術者だったが、いまは自営業。その清志さんが懐かしむ。
 「ハワイのお土産で、子供用のラケットを見つけてね。上のお姉ちゃんと家族4人で試合をしたくて圭にもラケットを渡したんだ」
週刊朝日、2008年3月7日
AIGオープン男子シングルス1回戦で敗退した錦織
AIGオープン男子シングルス1回戦で敗退した錦織 出典: 朝日新聞、2007年10月1日
4歳上の姉の玲奈さんも交えて、テニス漬けの日々が始まった。島根県松江市の自宅の前で壁打ちから始めた。週末になると、近くの公園やゲートボール場でボールを打った。清志さんは大好きな釣りやゴルフをやめて、つきあった。
週刊朝日、2008年10月10日
 7歳のころには母親の恵理さん(47)もかなわなくなり、「点数係に回った」(恵理さん)という。小学校1年から週3、4日はテニススクールに通い、土日は遠征試合の日々。
週刊朝日、2008年3月7日
 「圭と1対1でやっていたら、もたなかった。4歳上の姉の玲奈と一緒だったから、姉弟同士で愚痴を言いあう逃げ場があった。姉に追いつきたい欲求もある」と父は回想する。この時期は女の子の方が成長が早く、姉に勝つのは難しかった。初めて勝ったのは、小学校6年の時だった。
朝日新聞、2009年1月1日
 (※withnews注 松江)市内のテニススクールで錦織選手を指導した柏井正樹コーチ(48)(中略)によると、錦織選手は5歳から中学1年の秋までスクールに通った。小学6年生の時、練習中に足をねんざした。「1週間くらい練習を休みなさい」と言うと、「それは僕に死ねって言うことと同じです」と返ってきた言葉が印象に残っているという。「それくらいテニスが好きな努力家でした」
朝日新聞、2008年8月13日
プロテニス男子国別対抗戦デ杯で、抱負を語る錦織。杉山圭子撮影、2009年3月4日
プロテニス男子国別対抗戦デ杯で、抱負を語る錦織。杉山圭子撮影、2009年3月4日 出典: 朝日新聞
 6年生になると週末に遠征に出かけることが多くなったが、月曜日には宿題を全部やってきていた。「弱音を吐いたり、テニスが忙しいと言い訳したりしたことは一度もなかった。芯が強い子です」(※市立乃木小学校の5、6年生の時の担任、山根和子教諭)
朝日新聞、2008年8月13日
小学生のとき、週に1回ぐらい、野球をしていた時期があった。守備は退屈で嫌いだったが、打つのは上手だった。ただ、致命的な欠点があった。ストライクを打つ好球必打ではなく、来た球はすべて打ちにいってしまう。
 「僕の中では、向かってくるボールを見逃すという発想はなかったですね」
アエラ、2013年5月13日
 小学生時代、錦織の遠征を引率したコーチ、石光孝次(43)にはこんな思い出がある。あるとき一緒に練習をしていたら、突然、錦織がイチローの振り子打法とか、野茂英雄のトルネード投法のマネをしたショットを打ち始めた。
 「練習に飽きないように、楽しみを見つけるのが得意だった」
北京五輪男子シングルス1回戦で、シュットラー(ドイツ)と対戦した錦織圭=岩崎央撮影
北京五輪男子シングルス1回戦で、シュットラー(ドイツ)と対戦した錦織圭=岩崎央撮影 出典: 朝日新聞
 圭君はピアノ、英会話は1年ほどしかもたなかった。しかし、サッカーは小学校5年生まで続けた。ポジションはMF。パスを出すのが上手で、視野の広いプレーが持ち味だった。
 この経験がテニスにも生きたのか、テニスの試合でも、
 「ただボールを打ち返すだけじゃなくてフェイントを入れたりドロップショットを打ったり。クレバーで創造力があるテニスで、我が子というのを抜きにして見ていて楽しかったんです」 と、清志さんは、子どもの才能に自信を深めていく。
アエラ、2008年3月3日
 清志さんは息子が小学校4年になったころから、将来は海外で挑戦させたいという夢を思い描くようになった。圭と名付けたのは「外国人でも発音しやすく、国際的な人間になってほしいという漠然とした願望があった」から。
朝日新聞、2009年1月1日
 試合を見ていて、清志さんが気づいたことがある。
 テニスの試合中に突然脚をさすり出したり、引きずるようなしぐさを見せる。どこかけがでもしたのかとその度にハラハラしたが、よくよく考えると、脚がおかしくなるのは、決まって試合に負けそうな時だった。
 「負けたのは体調不良のせいだということにしたかったんでしょう。私は、あえてその行動は責めんかったです。不登校の子が登校の時間になるとおなかが痛くなると言うように、責めてもつらいだけでしょう。圭は負けず嫌いな性格でしたから」
アエラ、2008年3月3日
日清食品HDと所属契約した時の錦織。藤島真人撮影、2012年4月4日
日清食品HDと所属契約した時の錦織。藤島真人撮影、2012年4月4日 出典: 朝日新聞
小学6年のとき、全国小学生選手権など3冠を達成し周囲の評価が高まった。父は、女子テニスの第一人者として活躍した杉山愛の母、芙沙子(63)が、そのころの息子を評した言葉を覚えている。
 「この子はコートに絵を描くような感じだね」
 単純に足が速いとか、サーブが強烈というのではなく、前後左右に打球を散らして緩急も織り交ぜる。すでに自分のスタイルがあり、表現できるスキルを評価してもらえたのがうれしかった。
アエラ、2013年5月13日

松岡修造との出会い

11歳で全国大会で優勝し、その才能を、あの松岡修造氏(40)に見いだされた。
週刊朝日、2008年3月7日
元テニスプレーヤーの松岡修造さん
元テニスプレーヤーの松岡修造さん 出典: 朝日新聞
ジュニアを集めたキャンプを開いていた松岡修造(45)も、参加した錦織のセンスを、すぐに見抜いた。

 昨春、松岡は杉山愛と「文藝春秋」で対談し、互いに、錦織のプレーを初めて見たときの衝撃を語っている。(中略)
 「僕には絶対にない才能だったので、型にはめてしまっては圭がテニスを嫌いになってしまうだろうし、発想力が失われてしまうんじゃないかと思ったわけです」
 「11歳にして僕以上の『発想力』を持ち、しかもプレーとして実行できる技術もあった」。

アエラ、2013年5月13日

松岡修造氏は、2008年の山本モナさんとの対談で、錦織選手の少年時代や指導方法についてこう語っています。

モナ 松岡さんは子どもたちにテニスを教えてもいらっしゃって、2月にATPツアーで初優勝した錦織圭くんは松岡さんの教え子ですね。松岡さんはどんなことを教えてくれるんですか。
 松岡 僕は海外でメンタルの先生の授業を受けてたんですけど、とにかく一番言われたのは「俳優になれ」ということなんです。だからもう2時間ぐらいボールも持たずに、すごく強い態度で、何があっても大丈夫だというように歩く練習だけしました。
 モナ そうすることで、どんなに強い対戦相手にも勝てるぞ、俺は大丈夫だと見せることができるし、自分もそう思い込める。
 松岡 偉そうな言い方ですけど、たぶん僕は俳優をやっても、ある程度の演技はできると思うんです。
 モナ 感情のコントロールの仕方を知ってるから。
 松岡 圭は当時、本当に表現力がなかった。人前で話すこともできなかった。一番、僕の合宿の中では泣いてた選手ですよ。トレーニングでは、たとえば、一人ずつ子どもたちを会議室に呼ぶんです。すると、僕やスタッフが黙って座っていて、ホワイトボードには「感じたまま踊れ」って書いてあって、曲が流れるんです。
 モナ わあ、やだ~。
 松岡 もうね、そのまま泣く選手もいる。でも、わけがわからないんだけど、(手足をばたつかせて)こうやって何とか頑張って少しずつ体を動かす選手もいる。それだけでオッケーなんです。それができたら、その日から消極的だった態度もがらりと変わる。
 モナ 私は泣くと思う。なんでそんなことするんですか?
 松岡 この状況っていうのは、海外のお客さんがたくさんいるところで、ものすごい強い相手と試合をするときの雰囲気と似てるんですよ。そういうとき、緊張や恐怖心のあまり、結局何もしないで頭真っ白で終わっちゃいましたっていうことがよくありますよね。そうなってほしくないから。これは僕が一番苦労したところでもあるんです。
 モナ 松岡さんもできなかった。
 松岡 ええ。僕は人前で話すのも大嫌いで苦手でしたから。日本ではなんでも揃っているいい環境で練習もできますが、プロになって海外へ行くと、練習相手を探していても無視されて、顔も見てくれないんですよ。
 モナ どうして?
 松岡 だって、誰も下手なやつとはやりたくないですよ。でもときどき練習相手を見つけてこない選手もいて、「お前、来い」と言われたら、もう超気合入れて、とにかく相手が喜ぶ練習をする。練習後、その選手の試合も見に行って一所懸命応援するんです。ポイント取ったら拍手して。するとまた、「お前、来いよ」って言ってくれるんですよ。それを繰り返していくうちに、僕がうまくなってくるんです。自分よりうまい人と練習してるから。
 モナ 自分でそうやって苦労して強くなったんですね。
 松岡 だから僕は、教えることに関してはある程度得意だと思います。なんでもてきぱきと器用にできたほうじゃなかったから。僕はテニスの才能があるって、一度も言われたことない選手だったんです。
 モナ そうなんですか。
 松岡 はい、小さいころからね。とにかく性格で勝ってた。相手の嫌なところだけを狙っていって、試合展開がうまかったということですよ。それで世界の中で苦労しましたし、怪我も多かったんです。だから選手がどうしたら怪我をしないかとか、伸び悩んでいる選手に対して、どうすればいいのかというアイデアは持っているんです。
アエラ、2008年5月5日
1992年、グンゼWテニスでの松岡修造氏。リチャード・クライチェックに決勝戦で敗れた
1992年、グンゼWテニスでの松岡修造氏。リチャード・クライチェックに決勝戦で敗れた 出典: 朝日新聞
 「小学6年の修学旅行と松岡さんの合宿が重なったときは迷わずテニスを選んだ。テニス留学も圭が決めたこと。反対はしませんでした」(清志さん)
 以来、松岡氏らの支援を受け、年間1千万円以上といわれるスクール留学費も、日本テニス協会会長が運営する基金が援助した。
週刊朝日、2008年3月7日

13歳で決断した米国留学

同小6年生だった01年、全国小学生選手権など複数の大会で優勝。卒業文集に「日本一 次はその上 世界一」と書き、卒業後、13歳で米国にテニス留学した。
朝日新聞、2008年11月14日
 盛田正明・日本テニス協会会長が私財を投じた基金の援助を受け、13歳で米国名門アカデミーへ旅立った。
 50面以上のコートがある施設で、遠慮とは無縁の、世界の同世代とテニス漬けの寮生活を送る。冷蔵庫のジュースを勝手に飲まれたり、タンスのタオルを使われたり。「ホームシックになったこともあった」。気分転換に、日本の音楽を聴き、ゴルフのクラブを握った。家族へのメールは3行程度。弱音は見せない。
朝日新聞、2008年2月21日
ウィンブルドン選手権で、4度目の出場で初勝利。男子シングルス1回戦でミハイル・ククシキンにストレート勝ち。西畑志朗撮影。2012年6月26日
ウィンブルドン選手権で、4度目の出場で初勝利。男子シングルス1回戦でミハイル・ククシキンにストレート勝ち。西畑志朗撮影。2012年6月26日 出典: 朝日新聞
 留学先の「IMGアカデミー」は、世界的なコーチが始めたテニスのいわば「虎の穴」である。ここからアガシ、セレシュ、シャラポワらが巣立ち、世界の頂点に立っている。
 両親は、錦織を送り出す時、「里心がつくから」と携帯電話も持たせなかった。生半可な気持ちでは続けられないことがわかっていたからだ。離れて暮らす両親もまた、耐えた。
週刊朝日、2008年10月10日
 父は「先に留学した選手で見本となる成功例がないのは不安でした。でも、挑戦しなくて後悔するのはイヤだった」。
 もともと、日本の中学校の部活動でテニスをさせようという気持ちはなかった。
 「テニスは個人競技。団体戦とか部活動とかは、圭の性格にも合わない」
朝日新聞、2009年1月1日
 清志さんも、留学の厳しさをこう語る。
 「いくら名門校でも芯が弱ければつぶれ、プロになれるのも入学者の1割程度で成功の保証など何もない。昨年も腰を痛めた。本人の選んだ道とはいえ、一歩間違えばすべてを失う厳しい人生を見守るのは、親として覚悟のいることでした」
週刊朝日、2008年3月7日
ロンドン五輪代表を決めた伊藤竜馬(左から)、錦織圭、添田豪。西畑志朗撮影、2012年6月27日
ロンドン五輪代表を決めた伊藤竜馬(左から)、錦織圭、添田豪。西畑志朗撮影、2012年6月27日 出典: 朝日新聞
当初は、2人の日本男子ジュニアが一緒で、元日本代表選手の米沢徹コーチも派遣された。気心知れた仲間がいることは、英語がしゃべれなかった錦織にとっても、支えだった。しかし、数年後、2人と米沢コーチは帰国する。錦織は、たった一人で残された。
 「ホームシックにかかりました。テニスに打ち込むことで、すべてを忘れようとした」
 錦織はそう振り返る。
 IMGアカデミーでは、ほとんどの生徒が、トッププロを目指す。しかし、その大半が、夢半ばで挫折していく。その中で、15、16歳の日本の少年が生き抜くには、テニスで答えを出すしかなかった
週刊朝日、2008年10月10日
渡米当時から現地でトレーナーをしている中村豊さん(36)は、当時の錦織について、
 「島根の田舎から出てきたシャイな子で、口数も少なかった」
 と語る。しかし、テニスの技術指導に関しては、身振り手振りで現地のコーチに食らいついていたという。
 「テニスで強くなるという目的意識がはっきりしていた」
アエラ、2008年9月15日

18歳でツアー初優勝 ナダルの予言「必ず将来のトップ10に」

 米国などでの過酷な下積み経験が実り、錦織選手はプロになって半年もたたないうちにツアーで初優勝を果たします。

 日本の男子テニスに新星が飛び出した。米フロリダ州であったデルレービーチ国際選手権の男子シングルスで17日、錦織圭(にしこりけい)がツアー初優勝を飾った。昨秋、プロに転向したばかりの18歳。
朝日新聞、2008年2月19日
 「日本の10代が第1シードを圧倒」「18歳1カ月での優勝は16歳10カ月のレイトン・ヒューイットに次ぐ若さ」。試合結果を伝えるプロツアーのホームページも驚きに満ちていた。
 日本男子では92年の松岡修造以来16年ぶりのツアー制覇は、錦織にとってツアー6戦目。世界ランクの上位10傑は欠場していたものの、決勝では世界ランク12位のジェームズ・ブレーク(米)を強烈なフォアで脱帽させた。
朝日新聞、2008年2月19日
男子テニス楽天ジャパンオープンのシングルスで優勝し、トロフィーを掲げる錦織圭=東京・有明コロシアム、林敏行撮影、2012年10月7日
男子テニス楽天ジャパンオープンのシングルスで優勝し、トロフィーを掲げる錦織圭=東京・有明コロシアム、林敏行撮影、2012年10月7日 出典: 朝日新聞

 08年6月、錦織選手は世界ランク1位のラファエル・ナダル(スペイン)とアルトワ選手権で対戦し完敗。
 しかし、当時18歳にして1セットを奪い、2時間4分の激闘の末、こう予言されます。

 22歳のナダルは錦織について「いずれ、必ず世界のトップ10に入る。もしかしたらトップ5かも。テニスに必要な資質を備え、試合を読む力もある」と賛辞を並べた。
朝日新聞、2008年6月14日

憧れのフェデラーを超える

 錦織圭選手がプロデビューしたのは2007年の10月1日、東京・有明テニスの森公園で開かれた「AIGオープン」でした。
 シングルス1回戦で米国のザック・フライシュマンに敗れ、初戦を飾れませんでしたが、当時の記事はそのプレーを「フェデラーのよう」と記録しています。

 柔らかなラケットさばきから多彩なボールを繰り出す。錦織のプレーは世界王者フェデラー(スイス)を連想させた。負けたのは詰めの甘さから。第1セットは3―2とした直後にダブルフォールト3度で自滅。第3セットは「第2セットをとってほっとした。集中力が切れました」。
 7月に日本男子最年少でツアー8強入りを果たしたホープは「気持ちをもっと強くして、いつかフェデラーのようになりたい」と夢を話した。
朝日新聞、2007年10月2日
世界ランク1位に君臨したフェデラー、2014年9月
世界ランク1位に君臨したフェデラー、2014年9月 出典:ロイター

 その後もフェデラーへの憧れを繰り返し語り、「目標」とまで言い切っていました。
そしてついに、テニス界の巨人を倒す日がやってきます。

 13歳で米国にテニス留学して3年目、究極のあこがれと出会う。ジュニアの部に初出場した05年のウィンブルドン選手権で見たロジャー・フェデラー(スイス)。「ミスなくどんなショットも打てる。神みたいな存在でした」
 07年春、マイアミで行われた大会前の練習で、初めて打ち合った。「初対面の印象はすごく柔らかかった。試合中の集中した雰囲気とのギャップがまたすごいなと」。笑顔の王者と並んだ記念写真は今も宝物だ。
朝日新聞、2010年1月1日
 ――ウィンブルドンは05年にジュニア部門に出場したが、1回戦負けでしたね。
 「あまり良い記憶はない。勝てなかった気がする。あのとき、センターコートでフェデラーの試合を生で見て、改めてすごいと思いました」
 ――そのフェデラーは今大会で6連覇を狙う。あこがれの選手だそうですね。
 「ずっと世界ランキング1位をキープしているのがすごい。ショットの種類、プレーの幅も広いし、技術も精神面も完璧(かんぺき)。目標です(後略)」
朝日新聞、2008年6月21日
 テニスのマドリード・オープンで錦織圭がロジャー・フェデラー(スイス)を破った歴史的な一戦はテニスの妙味が詰まっていた。
 総ポイント数は、錦織が69で、フェデラーが76。
 7点少ない錦織が勝ってしまえるのが、面白い。
 4連続得点のラブゲームで奪っても、ジュースの応酬の末に取っても、1ゲームは1ゲームだからだ。
 勝負どころのブレークポイントの成功率は錦織の75%に対し、フェデラーが29%。常識的には、接戦ほど修羅場の経験値が明暗を分けそうだが、23歳の錦織が4大大会で史上最多の17度の優勝を誇る31歳を心理的に追いつめ、サーブの精度をも狂わせた。

 「僕のアイドルに勝つのはテニス人生で一つのゴール」。錦織は振り返った。
 強さだけでなく、片手打ちのバックハンドなどコートを華麗に舞うフェデラーは、錦織にとって単なるライバルではなく、崇拝の対象でもある唯一の存在だ。
 (中略)
 しかし、おそらく夢にまで見たフェデラー倒しを成し遂げたのに、両手でのガッツポーズこそあれ、歓喜の表情はなかった。「優勝しないと喜べない」が信条の、錦織らしかった。
朝日新聞、2013年5月11日

フェデラーを倒した後、錦織選手はこう振り返ります。

「尊敬する選手に勝つというのは、うれしいようで寂しい感じもある」
朝日新聞デジタル、2013年12月13日
フェデラーと錦織
フェデラーと錦織 出典:ロイター

 そして、「憧れのフェデラー」に並んだ彼は、さらに「上」をめざして進み、今回の全米オープン決勝まで至ります。

錦織、フェデラー撃破 憧れの先へ テニスのソニー・オープン 26日

 米フロリダ州マイアミで行われ、男子シングルス準々決勝で錦織圭が、元世界ランキング1位、ロジャー・フェデラー(スイス)を3―6、7―5、6―4で破り、初のベスト4入りを決めた。この大会は「マスターズ」と呼ばれ、4大大会に次ぐ格付けの大会。(中略)

 錦織はフェデラーを崇拝していた。
 昨年、初めて勝ったときは「僕のアイドルに勝つのはテニス人生で一つのゴール」と感慨深げだった。
 それがこの日、勝利直後の英語のインタビューで平然と言ってのけた。
 「マスターズで決勝に進むには、トップ10を何人か倒さないといけない」
 後がない第2セットで2度も先にブレークされながら盛り返す粘り。最終セットはブレークポイントすら許さない安定感が光った。

 心理面で錦織を鍛えるのが、今季から契約コーチに就任した元全仏王者のマイケル・チャン氏だ。
 2人が初めて話し合ったのが2011年秋。「圭はどれだけフェデラーがすごいかを話してくれた。ロジャーは史上最強の王者だけど、コートで戦うとき、尊敬は邪魔でしかない。テニスで世界のトップに近づくほど、メンタル面が勝負を分けることを圭は理解しないといけない」
 錦織は念を押されている。「4大大会で準決勝、決勝にいっても当然と思え」
朝日新聞、2014年3月28日

錦織の言葉

小6のとき、楽しみにしていた修学旅行をやめて、松岡修造さんのテニス教室に参加した。「チャンスを逃す手はない。アメリカ留学もプロになるには必然というか、自然の流れで」
グローブ、2012年3月18日
決勝でチリッチと戦った錦織
決勝でチリッチと戦った錦織 出典:ロイター
 初めて見た国際大会は2000年のジャパンオープン。予測不能な技ありショットを連発するヒシャム・アラジ(モロッコ)にひきつけられた。「見てて楽しくて。あんなプレーがしたいなって」
 以降も「うまいな、と思うショットを持つ選手を好きになっては、これは自分も使えるかなとまねしてやっていましたね」
朝日新聞、2010年1月1日
小学校時代から詩人・相田みつをが好きだった。言葉を書き写したり、自己流でオリジナルの言葉をつくっては紙に書いたりしていた。
 母の恵理さんは松江市の自宅に今も大事に取っている。
 「まだいける そう思えるか」
 「今だ 勝負しろ 『いいなー』」
 「いつでも だれでもラッキーはくる そう思え」
 「いつでも いい自分を思い出せ」
 試合で劣勢のとき、弱気になりかけたときに自分を鼓舞する魔法の言葉。一流選手に共通するプラス思考の大切さを、幼いときから会得していたのがわかる。
朝日新聞、2009年1月1日
 「小学6年ぐらいまでは、負けたら9割方泣いていた。泣かない日が来るのかな、と思っていて。大人になってもずっと続くのかな、と思っていた」
 そんな自分を冷静に見つめる、もう一人の自分もいた。
 「泣かなくなったら、逆に怖いな、と。悔しさがなくなって、負けを受け入れちゃうオレも怖いな、と思った」
 16歳ぐらいでも、まだ泣きながら試合をしたことがあったという。
アエラ、2013年5月13日
 「アメリカに来たころ、最初は何もかもが恐かった」
アエラ、2008年9月15日
 「ネットに詰める回数を増やし、早めに勝負を仕掛けるのが理想です。試合時間を短くできれば、体力の消耗を減らせる」
朝日新聞、2012年11月16日
 「試合を進めながら、じわじわと相手の嫌がるところを攻めていこうとは考えています」
アエラ、2013年5月13日
優勝を決めた直後、コートで喜びをかみしめるチリッチ
優勝を決めた直後、コートで喜びをかみしめるチリッチ 出典:ロイター
 「同じことを繰り返しやるのはおもしろくない」
 錦織が、このように話すプレーは自由奔放。「エア・ケイ」と呼ばれる豪打のジャンピング・フォアでとどめを刺すのが必殺パターンだが、その過程で何が飛び出すかわからない展開が、錦織の最大の魅力だ。
週刊朝日、2008年10月10日
 世界のトップに近づくほど技術の差はわずかで、心理面が勝負を分ける。
「勝負どころでの1ポイントを取るか、失うか。絶対に自分が勝つ、という気持ちをもてるかどうか」
グローブ、2012年3月18日
 「正直、日本人初という意識はない。これまでも世界基準で考えてきた」
 (※世界ランキングを15位まで上げた時に問われ)
朝日新聞、2012年12月31日
「『若い選手』から一歩抜け出したい。それはグランドスラムで8強、4強に入ること」
朝日新聞デジタル、2014年1月13日
錦織のスポンサー、日清食品HDの社員らが東京で決勝戦を見守った
錦織のスポンサー、日清食品HDの社員らが東京で決勝戦を見守った 出典:ロイター
 「僕が日本人だからナメられたのかもしれないけれど、外国人は勝つことに貪欲すぎるというか、本当にずるいやつがいた」
アエラ、2013年5月13日

 「コートでは怒っているぐらいの顔をしていないとだめなんです。トッププロの実力差なんて紙一重。ちょっとしたことで集中力が切れたり、一瞬でも弱みをみせたりしたらつけ込まれる」
アエラ、2013年5月13日
 日本男子初のトップ10が確定した勝利の瞬間、錦織に派手な喜びはなかった。テレビインタビューでトップ10入りが確実になったことを聞かされても、「そうなんですか?」と知らなかったことをうかがわせた。
 昨季は6月に11位になってから「トップ10」の重圧に押しつぶされ、調子を崩した。あえて意識しないよう心がけたのか。いや、むしろ、マイケル・チャンコーチの教えに従い、「10位は単なる通過点」と、視線はさらに上に向いているのだろう。
朝日新聞デジタル、2014年5月10日
錦織のコーチに就任したマイケル・チャン氏。稲垣康介撮影。2013年12月23日
錦織のコーチに就任したマイケル・チャン氏。稲垣康介撮影。2013年12月23日 出典: 朝日新聞社
少年時代、松江に帰省し、米国に戻る息子を出雲空港で見送った。息子の後ろ姿を見送りながら、父と母はきまって、こんな会話を交わした。
 「圭、絶対こっちを振り向かないよ」
 その通り、息子は前を向いたまま、出発ゲートに吸い込まれていった。

 常に前を向き、歩み続けてきた。
 男子テニス界で「日本人初」の快挙ともてはやされても、ピンと来ないし、満足感もない。
 「えらそうな言い方だと誤解されると困るんですけど、昔から世界を基準に考えて戦ってきたので、日本人初という感慨はあまりない。今後達成することは、すべてそうですし……」

 小学校の卒業文集に書いたときから、目標は揺らがない。
 「夢は世界チャンピオンになることです」
 錦織圭は、振り返らない。
アエラ、2013年5月13日
錦織はチリッチに敗れたが、4大大会で日本人初の準優勝を飾った
錦織はチリッチに敗れたが、4大大会で日本人初の準優勝を飾った 出典:ロイター
にしこり・けい
1989年 島根県生まれ。5歳のとき、4歳上の姉・玲奈とともに、父親からテニスを教わり始める。
2001年 全国小学生選手権など3冠を達成。
  03年 日本テニス協会会長、盛田正明が出資する財団の奨学生として米フロリダ州のIMGアカデミーに留学。
  06年 全仏オープンジュニア男子ダブルスで日本男子史上初の4大大会ジュニアダブルス優勝。ラファエル・ナダル(スペイン)の練習相手を務めた。
  07年 3月のマイアミ・マスターズのダブルスでツアー初出場。9月に日本でプロ転向を発表。
  08年 2月、デルレイビーチ国際選手権で予選から勝ち上がり、決勝で第1シードのジェームズ・ブレーク(米)を破り優勝。日本男子のツアー制覇は1992年4月の松岡修造以来16年ぶり2人目。4月に世界ランキングが99位に。
      ウィンブルドンで初の4大大会本戦出場。1回戦で腹筋の痛みを訴え、途中棄権。北京五輪に出場。
      全米オープン3回戦で世界4位のダビド・フェレール(スペイン)を破り、ベスト16。
  09年 右ひじの疲労骨折が判明し、8月に内視鏡手術。残りのツアーを欠場。
  10年 一時はランキングを失ったが、復帰後は下部大会で好成績を挙げランキングを回復。
  11年 10月の上海マスターズのベスト4などで、同月に世界ランキング30位にランクアップ、松岡と並んでいた日本男子の世界ランキング最高位(46位)を塗り替える。11月のスイス室内では準決勝で世界1位のノバク・ジョコビッチ(セルビア)を破る大金星。日本男子がシングルスで世界1位を破ったのは史上初。
  12年 全豪オープンでは現行ランキング制度導入の1973年以降の4大大会で、日本男子シングルス選手で初めて上位32名に与えられるシード権(第24シード)を得て8強入り。
      ロンドン五輪は日本男子シングルスでは原田武一以来88年ぶりとなる勝利をあげるなどし、ベスト8。
      楽天ジャパンオープンで優勝し、ツアー2勝目。日本男子で史上初のツアー2勝。大会後のランキングで自己最高の15位に。
  13年 全豪オープンでは日本男子初の2年連続ベスト16に進出。2月の全米室内選手権でツアー3勝目。
アエラ、2013年5月13日
 ■錦織圭の2年間の主な成績
            2012年   2013年
世界ランキング(年末) 19位     17位
勝敗          37勝18敗  36勝19敗
年間獲得賞金      1億262万円 1億1629万円
全豪          ベスト8    ベスト16
全仏          欠場      ベスト16
ウィンブルドン     3回戦     3回戦
全米          3回戦     1回戦
 (賞金は1ドル=100円換算)
朝日新聞、2013年12月14日

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