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錦織圭、テニス全米で準優勝 松岡修造の助言は「俳優になれ」
テニスの錦織圭は、4大大会「全米オープン」の男子シングルス決勝でマリン・チリッチ(クロアチア)に敗れました。日本人の初優勝はかないませんでしたが、快挙です。少年時代からの軌跡と彼の言葉で振り返ります。

錦織圭選手(24)が、テニスの4大大会「全米オープン」の男子シングルス決勝でマリン・チリッチ(クロアチア)に敗れました。
日本人初の優勝こそかないませんでしたが、歴史に名を刻む快挙。錦織選手の少年時代からの軌跡とその言葉を振り返ります。
家族と地元の支えで始まったテニス人生
「ハワイのお土産で、子供用のラケットを見つけてね。上のお姉ちゃんと家族4人で試合をしたくて圭にもラケットを渡したんだ」


「僕の中では、向かってくるボールを見逃すという発想はなかったですね」
「練習に飽きないように、楽しみを見つけるのが得意だった」

この経験がテニスにも生きたのか、テニスの試合でも、
「ただボールを打ち返すだけじゃなくてフェイントを入れたりドロップショットを打ったり。クレバーで創造力があるテニスで、我が子というのを抜きにして見ていて楽しかったんです」 と、清志さんは、子どもの才能に自信を深めていく。
テニスの試合中に突然脚をさすり出したり、引きずるようなしぐさを見せる。どこかけがでもしたのかとその度にハラハラしたが、よくよく考えると、脚がおかしくなるのは、決まって試合に負けそうな時だった。
「負けたのは体調不良のせいだということにしたかったんでしょう。私は、あえてその行動は責めんかったです。不登校の子が登校の時間になるとおなかが痛くなると言うように、責めてもつらいだけでしょう。圭は負けず嫌いな性格でしたから」

「この子はコートに絵を描くような感じだね」
単純に足が速いとか、サーブが強烈というのではなく、前後左右に打球を散らして緩急も織り交ぜる。すでに自分のスタイルがあり、表現できるスキルを評価してもらえたのがうれしかった。
松岡修造との出会い

昨春、松岡は杉山愛と「文藝春秋」で対談し、互いに、錦織のプレーを初めて見たときの衝撃を語っている。(中略)
「僕には絶対にない才能だったので、型にはめてしまっては圭がテニスを嫌いになってしまうだろうし、発想力が失われてしまうんじゃないかと思ったわけです」
「11歳にして僕以上の『発想力』を持ち、しかもプレーとして実行できる技術もあった」。
松岡修造氏は、2008年の山本モナさんとの対談で、錦織選手の少年時代や指導方法についてこう語っています。
松岡 僕は海外でメンタルの先生の授業を受けてたんですけど、とにかく一番言われたのは「俳優になれ」ということなんです。だからもう2時間ぐらいボールも持たずに、すごく強い態度で、何があっても大丈夫だというように歩く練習だけしました。
モナ そうすることで、どんなに強い対戦相手にも勝てるぞ、俺は大丈夫だと見せることができるし、自分もそう思い込める。
松岡 偉そうな言い方ですけど、たぶん僕は俳優をやっても、ある程度の演技はできると思うんです。
モナ 感情のコントロールの仕方を知ってるから。
松岡 圭は当時、本当に表現力がなかった。人前で話すこともできなかった。一番、僕の合宿の中では泣いてた選手ですよ。トレーニングでは、たとえば、一人ずつ子どもたちを会議室に呼ぶんです。すると、僕やスタッフが黙って座っていて、ホワイトボードには「感じたまま踊れ」って書いてあって、曲が流れるんです。
モナ わあ、やだ~。
松岡 もうね、そのまま泣く選手もいる。でも、わけがわからないんだけど、(手足をばたつかせて)こうやって何とか頑張って少しずつ体を動かす選手もいる。それだけでオッケーなんです。それができたら、その日から消極的だった態度もがらりと変わる。
モナ 私は泣くと思う。なんでそんなことするんですか?
松岡 この状況っていうのは、海外のお客さんがたくさんいるところで、ものすごい強い相手と試合をするときの雰囲気と似てるんですよ。そういうとき、緊張や恐怖心のあまり、結局何もしないで頭真っ白で終わっちゃいましたっていうことがよくありますよね。そうなってほしくないから。これは僕が一番苦労したところでもあるんです。
モナ 松岡さんもできなかった。
松岡 ええ。僕は人前で話すのも大嫌いで苦手でしたから。日本ではなんでも揃っているいい環境で練習もできますが、プロになって海外へ行くと、練習相手を探していても無視されて、顔も見てくれないんですよ。
モナ どうして?
松岡 だって、誰も下手なやつとはやりたくないですよ。でもときどき練習相手を見つけてこない選手もいて、「お前、来い」と言われたら、もう超気合入れて、とにかく相手が喜ぶ練習をする。練習後、その選手の試合も見に行って一所懸命応援するんです。ポイント取ったら拍手して。するとまた、「お前、来いよ」って言ってくれるんですよ。それを繰り返していくうちに、僕がうまくなってくるんです。自分よりうまい人と練習してるから。
モナ 自分でそうやって苦労して強くなったんですね。
松岡 だから僕は、教えることに関してはある程度得意だと思います。なんでもてきぱきと器用にできたほうじゃなかったから。僕はテニスの才能があるって、一度も言われたことない選手だったんです。
モナ そうなんですか。
松岡 はい、小さいころからね。とにかく性格で勝ってた。相手の嫌なところだけを狙っていって、試合展開がうまかったということですよ。それで世界の中で苦労しましたし、怪我も多かったんです。だから選手がどうしたら怪我をしないかとか、伸び悩んでいる選手に対して、どうすればいいのかというアイデアは持っているんです。

以来、松岡氏らの支援を受け、年間1千万円以上といわれるスクール留学費も、日本テニス協会会長が運営する基金が援助した。
13歳で決断した米国留学
50面以上のコートがある施設で、遠慮とは無縁の、世界の同世代とテニス漬けの寮生活を送る。冷蔵庫のジュースを勝手に飲まれたり、タンスのタオルを使われたり。「ホームシックになったこともあった」。気分転換に、日本の音楽を聴き、ゴルフのクラブを握った。家族へのメールは3行程度。弱音は見せない。

両親は、錦織を送り出す時、「里心がつくから」と携帯電話も持たせなかった。生半可な気持ちでは続けられないことがわかっていたからだ。離れて暮らす両親もまた、耐えた。
もともと、日本の中学校の部活動でテニスをさせようという気持ちはなかった。
「テニスは個人競技。団体戦とか部活動とかは、圭の性格にも合わない」
「いくら名門校でも芯が弱ければつぶれ、プロになれるのも入学者の1割程度で成功の保証など何もない。昨年も腰を痛めた。本人の選んだ道とはいえ、一歩間違えばすべてを失う厳しい人生を見守るのは、親として覚悟のいることでした」

「ホームシックにかかりました。テニスに打ち込むことで、すべてを忘れようとした」
錦織はそう振り返る。
IMGアカデミーでは、ほとんどの生徒が、トッププロを目指す。しかし、その大半が、夢半ばで挫折していく。その中で、15、16歳の日本の少年が生き抜くには、テニスで答えを出すしかなかった
「島根の田舎から出てきたシャイな子で、口数も少なかった」
と語る。しかし、テニスの技術指導に関しては、身振り手振りで現地のコーチに食らいついていたという。
「テニスで強くなるという目的意識がはっきりしていた」
18歳でツアー初優勝 ナダルの予言「必ず将来のトップ10に」
米国などでの過酷な下積み経験が実り、錦織選手はプロになって半年もたたないうちにツアーで初優勝を果たします。
日本男子では92年の松岡修造以来16年ぶりのツアー制覇は、錦織にとってツアー6戦目。世界ランクの上位10傑は欠場していたものの、決勝では世界ランク12位のジェームズ・ブレーク(米)を強烈なフォアで脱帽させた。

08年6月、錦織選手は世界ランク1位のラファエル・ナダル(スペイン)とアルトワ選手権で対戦し完敗。
しかし、当時18歳にして1セットを奪い、2時間4分の激闘の末、こう予言されます。
憧れのフェデラーを超える
錦織圭選手がプロデビューしたのは2007年の10月1日、東京・有明テニスの森公園で開かれた「AIGオープン」でした。
シングルス1回戦で米国のザック・フライシュマンに敗れ、初戦を飾れませんでしたが、当時の記事はそのプレーを「フェデラーのよう」と記録しています。
7月に日本男子最年少でツアー8強入りを果たしたホープは「気持ちをもっと強くして、いつかフェデラーのようになりたい」と夢を話した。

その後もフェデラーへの憧れを繰り返し語り、「目標」とまで言い切っていました。
そしてついに、テニス界の巨人を倒す日がやってきます。
07年春、マイアミで行われた大会前の練習で、初めて打ち合った。「初対面の印象はすごく柔らかかった。試合中の集中した雰囲気とのギャップがまたすごいなと」。笑顔の王者と並んだ記念写真は今も宝物だ。
「あまり良い記憶はない。勝てなかった気がする。あのとき、センターコートでフェデラーの試合を生で見て、改めてすごいと思いました」
――そのフェデラーは今大会で6連覇を狙う。あこがれの選手だそうですね。
「ずっと世界ランキング1位をキープしているのがすごい。ショットの種類、プレーの幅も広いし、技術も精神面も完璧(かんぺき)。目標です(後略)」
総ポイント数は、錦織が69で、フェデラーが76。
7点少ない錦織が勝ってしまえるのが、面白い。
4連続得点のラブゲームで奪っても、ジュースの応酬の末に取っても、1ゲームは1ゲームだからだ。
勝負どころのブレークポイントの成功率は錦織の75%に対し、フェデラーが29%。常識的には、接戦ほど修羅場の経験値が明暗を分けそうだが、23歳の錦織が4大大会で史上最多の17度の優勝を誇る31歳を心理的に追いつめ、サーブの精度をも狂わせた。
「僕のアイドルに勝つのはテニス人生で一つのゴール」。錦織は振り返った。
強さだけでなく、片手打ちのバックハンドなどコートを華麗に舞うフェデラーは、錦織にとって単なるライバルではなく、崇拝の対象でもある唯一の存在だ。
(中略)
しかし、おそらく夢にまで見たフェデラー倒しを成し遂げたのに、両手でのガッツポーズこそあれ、歓喜の表情はなかった。「優勝しないと喜べない」が信条の、錦織らしかった。
フェデラーを倒した後、錦織選手はこう振り返ります。

そして、「憧れのフェデラー」に並んだ彼は、さらに「上」をめざして進み、今回の全米オープン決勝まで至ります。
米フロリダ州マイアミで行われ、男子シングルス準々決勝で錦織圭が、元世界ランキング1位、ロジャー・フェデラー(スイス)を3―6、7―5、6―4で破り、初のベスト4入りを決めた。この大会は「マスターズ」と呼ばれ、4大大会に次ぐ格付けの大会。(中略)
錦織はフェデラーを崇拝していた。
昨年、初めて勝ったときは「僕のアイドルに勝つのはテニス人生で一つのゴール」と感慨深げだった。
それがこの日、勝利直後の英語のインタビューで平然と言ってのけた。
「マスターズで決勝に進むには、トップ10を何人か倒さないといけない」
後がない第2セットで2度も先にブレークされながら盛り返す粘り。最終セットはブレークポイントすら許さない安定感が光った。
心理面で錦織を鍛えるのが、今季から契約コーチに就任した元全仏王者のマイケル・チャン氏だ。
2人が初めて話し合ったのが2011年秋。「圭はどれだけフェデラーがすごいかを話してくれた。ロジャーは史上最強の王者だけど、コートで戦うとき、尊敬は邪魔でしかない。テニスで世界のトップに近づくほど、メンタル面が勝負を分けることを圭は理解しないといけない」
錦織は念を押されている。「4大大会で準決勝、決勝にいっても当然と思え」
錦織の言葉

以降も「うまいな、と思うショットを持つ選手を好きになっては、これは自分も使えるかなとまねしてやっていましたね」
母の恵理さんは松江市の自宅に今も大事に取っている。
「まだいける そう思えるか」
「今だ 勝負しろ 『いいなー』」
「いつでも だれでもラッキーはくる そう思え」
「いつでも いい自分を思い出せ」
試合で劣勢のとき、弱気になりかけたときに自分を鼓舞する魔法の言葉。一流選手に共通するプラス思考の大切さを、幼いときから会得していたのがわかる。
そんな自分を冷静に見つめる、もう一人の自分もいた。
「泣かなくなったら、逆に怖いな、と。悔しさがなくなって、負けを受け入れちゃうオレも怖いな、と思った」
16歳ぐらいでも、まだ泣きながら試合をしたことがあったという。

錦織が、このように話すプレーは自由奔放。「エア・ケイ」と呼ばれる豪打のジャンピング・フォアでとどめを刺すのが必殺パターンだが、その過程で何が飛び出すかわからない展開が、錦織の最大の魅力だ。
「勝負どころでの1ポイントを取るか、失うか。絶対に自分が勝つ、という気持ちをもてるかどうか」
(※世界ランキングを15位まで上げた時に問われ)

「コートでは怒っているぐらいの顔をしていないとだめなんです。トッププロの実力差なんて紙一重。ちょっとしたことで集中力が切れたり、一瞬でも弱みをみせたりしたらつけ込まれる」
昨季は6月に11位になってから「トップ10」の重圧に押しつぶされ、調子を崩した。あえて意識しないよう心がけたのか。いや、むしろ、マイケル・チャンコーチの教えに従い、「10位は単なる通過点」と、視線はさらに上に向いているのだろう。

「圭、絶対こっちを振り向かないよ」
その通り、息子は前を向いたまま、出発ゲートに吸い込まれていった。
常に前を向き、歩み続けてきた。
男子テニス界で「日本人初」の快挙ともてはやされても、ピンと来ないし、満足感もない。
「えらそうな言い方だと誤解されると困るんですけど、昔から世界を基準に考えて戦ってきたので、日本人初という感慨はあまりない。今後達成することは、すべてそうですし……」
小学校の卒業文集に書いたときから、目標は揺らがない。
「夢は世界チャンピオンになることです」
錦織圭は、振り返らない。

1989年 島根県生まれ。5歳のとき、4歳上の姉・玲奈とともに、父親からテニスを教わり始める。
2001年 全国小学生選手権など3冠を達成。
03年 日本テニス協会会長、盛田正明が出資する財団の奨学生として米フロリダ州のIMGアカデミーに留学。
06年 全仏オープンジュニア男子ダブルスで日本男子史上初の4大大会ジュニアダブルス優勝。ラファエル・ナダル(スペイン)の練習相手を務めた。
07年 3月のマイアミ・マスターズのダブルスでツアー初出場。9月に日本でプロ転向を発表。
08年 2月、デルレイビーチ国際選手権で予選から勝ち上がり、決勝で第1シードのジェームズ・ブレーク(米)を破り優勝。日本男子のツアー制覇は1992年4月の松岡修造以来16年ぶり2人目。4月に世界ランキングが99位に。
ウィンブルドンで初の4大大会本戦出場。1回戦で腹筋の痛みを訴え、途中棄権。北京五輪に出場。
全米オープン3回戦で世界4位のダビド・フェレール(スペイン)を破り、ベスト16。
09年 右ひじの疲労骨折が判明し、8月に内視鏡手術。残りのツアーを欠場。
10年 一時はランキングを失ったが、復帰後は下部大会で好成績を挙げランキングを回復。
11年 10月の上海マスターズのベスト4などで、同月に世界ランキング30位にランクアップ、松岡と並んでいた日本男子の世界ランキング最高位(46位)を塗り替える。11月のスイス室内では準決勝で世界1位のノバク・ジョコビッチ(セルビア)を破る大金星。日本男子がシングルスで世界1位を破ったのは史上初。
12年 全豪オープンでは現行ランキング制度導入の1973年以降の4大大会で、日本男子シングルス選手で初めて上位32名に与えられるシード権(第24シード)を得て8強入り。
ロンドン五輪は日本男子シングルスでは原田武一以来88年ぶりとなる勝利をあげるなどし、ベスト8。
楽天ジャパンオープンで優勝し、ツアー2勝目。日本男子で史上初のツアー2勝。大会後のランキングで自己最高の15位に。
13年 全豪オープンでは日本男子初の2年連続ベスト16に進出。2月の全米室内選手権でツアー3勝目。
2012年 2013年
世界ランキング(年末) 19位 17位
勝敗 37勝18敗 36勝19敗
年間獲得賞金 1億262万円 1億1629万円
全豪 ベスト8 ベスト16
全仏 欠場 ベスト16
ウィンブルドン 3回戦 3回戦
全米 3回戦 1回戦
(賞金は1ドル=100円換算)