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「完璧な好天を待つな」。没後40年リンドバーグの言葉と数奇な運命

史上初めて大西洋を1人で飛んだリンドバーグの死から、8月26日で40年。誘拐や隠し子騒動、日本との意外な関わり・・・偉業と数奇な運命、そして勇気づけられる言葉をご紹介します。

チャールズ・A・リンドバーグ
チャールズ・A・リンドバーグ 出典: 朝日新聞

目次

 翼よ、あれがパリの灯だ――。
 そんな名フレーズで知られ、人類史上初の単独での大西洋無着陸横断飛行を成し遂げた米国人パイロットのチャールズ・A・リンドバーグ(1902~74)。
8月26日は、そのリンドバーグ氏の死去からちょうど40年です。
 彼の数奇な運命や日本との意外な関わりをご紹介します。

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リンドバーグ氏の訃報を伝える朝日新聞1974年8月27日夕刊 
リンドバーグ氏の訃報を伝える朝日新聞1974年8月27日夕刊
 

 

25歳で偉業達成!

米国のスミソニアン航空宇宙博物館に展示されている「スピリット・オブ・セントルイス号」
米国のスミソニアン航空宇宙博物館に展示されている「スピリット・オブ・セントルイス号」 出典:米国のスミソニアン航空宇宙博物館ホームページ

 セントルイス―シカゴ間で、郵便機の夜間飛行をしていたリンドバーグ氏が、人類史上初の偉業を成し遂げたのは、1927年5月でした。
 当時25歳のリンドバーグ氏は、5月20日朝、プロペラ機「スピリット・オブ・セントルイス号」に単身で乗り込み、ニューヨークを飛び立ち、孤独や睡魔と戦いながら33時間半後にパリに降り立ちました。

大西洋を無着陸で横断した時の飛行航路
大西洋を無着陸で横断した時の飛行航路 出典:リンドバーグ財団

到着後、引きずり出され……

リンドバーグ氏の偉業達成を伝える朝日新聞(1927年5月23日朝刊)
リンドバーグ氏の偉業達成を伝える朝日新聞(1927年5月23日朝刊)

 当時の新聞によると、リンドバーグ氏が降り立ったパリ郊外のブルジェ空港には、夜にも関わらず大勢の市民が集まり、手荒い祝福で迎えられたようです。

集まった十萬に余る群衆の破れんばかりの拍手歓呼中に大西洋横断機は無事着陸し、リンドバーグ大尉はほとんど引ずり下される様に地上の人になった
朝日新聞1927年5月23日朝刊
一部の群衆は熱狂して大尉の使用機を二百ヤード(※withnews注 約180メートル)も担ぎ回った
朝日新聞1927年5月23日朝刊

日本にも飛んできていた

 リンドバーグ氏ですが、大西洋横断飛行に成功した後、北太平洋の航空路調査のため、妻のアンさんと一緒に水上機シリウス号で日本にも飛んできていました。
 根室、霞ケ浦、東京、大阪、福岡など立ち寄った各地で大歓迎を受け、当時の新聞なども夫妻の来日を大きく報じています。

朝日新聞1931年8月27日夕刊
朝日新聞1931年8月27日夕刊

 ちなみに東京滞在中は、朝日新聞にも来社いただいたようです。

来日したチャールズ・リンドバーグとアン夫人=1931年9月9日、東京朝日新聞社4階貴賓室
来日したチャールズ・リンドバーグとアン夫人=1931年9月9日、東京朝日新聞社4階貴賓室

 

記憶にも残った夫妻の来日

 リンドバーグ夫妻の来日は、当時の人々に強烈な印象を与えました。

 1931年9月17日、福岡市東区にあった名島水上飛行場にリンドバーグ夫妻が乗る飛行機が着水した。福岡市東区名島2丁目に住む奥磯美さん(87)はリンドバーグ機の飛来を午後4時ごろだったと記憶している。「真っ赤な飛行機が着水してドキドキした」。リンドバーグ夫妻が乗る2人乗り水上機「ロッキード・シリウス号」だ。飛行場には約100人の見物客が来ていた。「あんなかっこいい飛行機は当時、見たことがなかった」と振り返る。
朝日新聞福岡県版2013年9月17日
自作したシリウス号の模型を手に当時の様子を語る奥磯美さん=福岡市東区の名島公民館、光墨祥吾撮影
自作したシリウス号の模型を手に当時の様子を語る奥磯美さん=福岡市東区の名島公民館、光墨祥吾撮影 出典: 朝日新聞

 

訪日後、夫妻を襲った不幸

 そんなリンドバーグ夫妻ですが、私生活では大きな不幸に見舞われます。
 日本訪問後の1932年3月、1歳半の長男が自宅から誘拐されるという事件が起きました。身代金交渉などもありましたが、最悪の結末に…。

朝日新聞1932年3月3日朝刊
朝日新聞1932年3月3日朝刊
 1932年3月、ニュージャージー州の家から生後19カ月の赤ん坊が誘拐され、世界的な事件になった。赤ん坊はその後死体で見つかり、犯人は2年後につかまって死刑になった。
朝日新聞1974年8月27日夕刊

事件は誘拐保険のきっかけにも

 この事件を機に米国では誘拐への関心が高まり、「リンドバーグ法」が成立。複数の州にまたがる誘拐を連邦犯罪として取り締まれるようになりました。
 さらに、「誘拐保険」の誕生にもつながっていきます。

誘拐保険が開発されたのは、1932年の「リンドバーグ事件」がきっかけ。大西洋横断飛行に成功し、著書「翼よ あれがパリの灯だ」で知られるリンドバーグ氏の愛児が誘拐、殺害され、誘拐犯罪への関心が高まったのを見て、英国の「ロイズ保険協会」が最初に売り出した。
朝日新聞1987年4月4日

WWⅡ参戦反対も、零戦と対戦?

 誘拐事件後、悲しみに暮れるリンドバーグ夫妻は米国を離れ、欧州に移住しました。
 欧州では、ヒトラー政権下のドイツにも訪れていますが、第二次世界大戦を巡って、様々な批判にさらされます。

出典:imasia
ナチ時代のドイツ空軍に招かれて、ドイツの空軍力をみたことも手伝い、第二次大戦への米国参戦には猛反対し、ルーズベルト大統領と大論争になり、一時は非愛国者の批判も浴びた。しかし、日本の参戦後に、一市民として戦争に参加し、ゼロ戦と戦った。
朝日新聞1974年8月27日夕刊

人工心肺の原型を開発

 一方、リンドバーグは機械工学の知識を生かし、医学にも貢献しました。

彼は心臓病で危険な状態にあった身内の一人を助けようと、人工心臓の開発にも挑みました。そして1930年、ノーベル生理医学賞受賞者カレルとの出会いが幸運をもたらしました。メカニズムに精通したリンドバーグと、臓器移植や血管縫合などの臨床知識をもったカレル。彼らの間にたちまち緊密な協力関係が生まれ、カレルの実験室で繰り返し実験が行われました。こうして1935年、ついに史上初の人工心臓が試作されたのです。
テルモHP

二度目の来日は、鯨保護のため

出典:imasia

 リンドバーグ氏は戦後、パンアメリカン航空のアドバイザーなどとして航空業界に関わる一方、環境問題に取り組み、野生生物の保護活動などに注力していきます。中でも特に鯨の保護に熱心だったようです。

「世界各国を飛行機で飛回っている間に、最近の自然破壊があまりに激しいのを知り、10年ほど前から、何かやらねばいけないという気持がわいてきて、一番減り方の激しい鯨の保護運動を始めた」
朝日新聞1970年4月28日朝刊

 1970年4月には、大阪万博に合わせて、2度目の来日を果たします。
 その大阪万博の会場では、リンドバーグ氏が、かつて日本に立ち寄った際の「シリウス号」を展示。誰もが愛機との再会のための来日と思いきや、鯨保護キャンペーンのためと明らかにし、人々を驚かせました。

出典:imasia
(日本の新聞記者団との懇談での)話題は終始、鯨の保護と海洋汚染。かつての飛行家の来日の目的は、記念の飛行機が陳列してある万国博よりも、鯨保護のキャンペーンであることをあかした
朝日新聞1970年4月28日朝刊
「日本は二大捕鯨国の一つ。鯨の専門家もそろっている。今後、捕鯨船団に国際組織の看視人を置いて、捕獲量を確かめねば…」と言外に、もっと日本が保護に力をいれてほしいことをにおわせた
朝日新聞1970年4月28日朝刊

死後には隠し子騒動も

 そんな波瀾万丈な人生を送ったリンドバーグ氏ですが、死後約30年後に隠し子が発覚して、話題を集めました。

リンドバーグ氏の子どもと名乗り出た3人=ロイター
リンドバーグ氏の子どもと名乗り出た3人=ロイター
史上初の大西洋単独横断飛行に成功した米国のチャールズ・リンドバーグの子どもだと、3人のドイツ人兄弟が名乗り出た。ロイター通信などによると、3人は14日、独ミュンヘンで記者会見し、DNA鑑定を受ける用意がある、と話した。リンドバーグは74年の死去まで17年間にわたって毎年数回ドイツを訪れ、3人と時を過ごしたという。「もし我々が遺産を受け取るべきだと考えたなら、死ぬ前に手配したはずだ」と長男は話し、認知は希望するものの、財産には関心がないことを強調した。
朝日新聞2003年8月22日夕刊

孫は、祖父の偉業をたどる飛行へ

パリに降り立ち、祖父の胸像に触れるエリック・リンドバーグさん=ロイター
パリに降り立ち、祖父の胸像に触れるエリック・リンドバーグさん=ロイター
チャールズ・リンドバーグ(1902~1974)の孫、エリック・リンドバーグ氏(36)が14日、祖父の偉業をたどる記念飛行を始めた。「翼よ、あれがパリの灯だ」の名言で知られる祖父が飛んだのは1927年5月。1万ドル余りで特注した小型機「セントルイスの魂」号で、ニューヨークからパリまで33時間半。命がけの快挙だった。民間操縦士である孫が乗るのは、28万9千ドル(約3700万円)を投じた最新型機。交信機器を満載し、約21時間でパリに着く見込み。
朝日新聞2002年4月16日朝刊

 航空史に偉大な一歩を刻み、一躍英雄となる一方で、愛児の誘拐事件や戦時中の様々な批判など苦悩も味わったリンドバーグ氏。その墓は最期の時を過ごした別荘があるハワイの教会にあります。

ハワイのパラパラ・ホオマウ教会にあるリンドバーグ氏の墓
ハワイのパラパラ・ホオマウ教会にあるリンドバーグ氏の墓 出典:リンドバーグ財団

 彼の大西洋横断飛行を記録した本『翼よ、あれがパリの灯だ』(原題:The Spirit of St. Louis、佐藤亮一訳)は1953年に出版され、翌年のピュリツァー賞を受賞しています。
その中で、リンドバーグはこんな言葉を残しています。

“How beautiful the ocean is; how clear the sky; how fiery the sun!
 Whatever coming hours hold, it's enough to be alive this minute.”
「なんと大洋の美しいことよ! なんと大空の澄んでいることか! 炎のような太陽! 何事が起ころうと、この瞬間、生きていることでたくさんだ」

 ニューヨークを出発して23時間目、睡魔や嵐と戦いながら飛び続け、体力の限界を感じるなかでの言葉です。
「この瞬間、生きていることでたくさんだ」。印象的で、勇気づけられる言葉ではないでしょうか。

 彼は大西洋横断に飛び立つ直前、こうも言っています。
「ヨーロッパ全航程にわたる完全無欠な好天候の確報なんか待っていられるもんか。今こそチャンスだ。よし、明け方に飛びだそう!」

 環境が完璧に整わなくても冒険には踏み出せる・・・・死後40年が過ぎましたが、彼の生き様は語り継がれています。


 ニューヨーク・タイムスの過去の紙面をピックアップしてツイートしているアカウント(@NYTArchives)も、リンドバーグ氏の訃報を伝える40年前の紙面をツイートしました。(8月27日加筆)

チャールズ・A・リンドバーグ(Charles Augustus Lindbergh、1902-1974)
チャールズ・A・リンドバーグ(Charles Augustus Lindbergh、1902-1974) 出典: 朝日新聞

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