連載
#15 小さく生まれた赤ちゃんたち
28週1730gで生まれた山縣亮太選手、両親が振り返る誕生と成長
誕生した日、父は「究極の選択」に向き合いました
1992年6月、陸上選手の山縣亮太さん(30)は妊娠28週1730gと小さく生まれました。地元・広島に住む両親は、「不安と喜びの日々だった」と当時を振り返ります。幼い頃は風邪が重症化して入院したこともありました。今、息子の成長を見て感じることとは。(withnews編集部・河原夏季)
山縣選手が生まれた6月10日の昼間、母・美津恵さん(66)は出産用品を用意するため、買い物に出かけていました。外出先で違和感を感じ、タクシーでかかりつけの産婦人科へ。そこで破水していることが分かりました。
予定日は8月でしたが、もうおなかの中で育てることは難しく、すぐに出産に備えなければいけません。
父・浩一さん(63)もすぐに病院へ駆けつけました。美津恵さんがいる処置室とは別の部屋に通され、医師から状況を説明されました。
すぐに産むか、産まずにおなかの中で自然に任せるかーー。
「最初に究極の選択のような時間がありました」と浩一さんは振り返ります。
「そのままの状態ではおなかの中で亡くなってしまうことや、産むときのリスク、生まれた後のリスクについて説明を受けました。無事に生まれてきてほしいという気持ちで医師にお願いしましたが、妻は処置室なので私1人の判断でした」
医師からは、生まれても障害が残る可能性もあると聞きました。相談できる妻も、親も、その場にはいません。
もうすぐ我が子に会える。しかし、判断を迫られた当時は「決して幸せな時間ではなかった」と話します。
自身の判断が「正しい」のか。産まない選択肢を考えることは「不謹慎」で、人間として「失格」なのではないか。正解があることではありませんが、そんな重圧も感じたといいます。
「子どもの将来は僕の『答え』にゆだねられていたわけです。子どもの顔を見たいというのは親のわがままで、私の希望で決めていいのか。リスクが高く、つらいことが予想されるかもしれないけれど、そのことと命を天秤にかけて考えていいのか。そんな葛藤がありました」
当時の心境は、長年ずっと胸に秘めていました。今回、その思いを聞いた美津恵さんは、「少しショックでした」と話します。時が過ぎ、「今だから言えることなのかもしれませんね」とおもんぱかりました。
「産む」選択を経て、その日のうちに帝王切開で生まれた山縣選手。手術室の美津恵さんも、外で待っていた浩一さんも、「オギャー」という第一声を聞きました。
妊娠28週(妊娠8カ月)、体重は1730g。多くの赤ちゃんは妊娠37〜41週(正期産)で生まれ、平均出生体重は3000gほどになります。
山縣選手は週数の割に大きい赤ちゃんでしたが、内臓は成熟しておらず、特に肺は「重症」でした。
すぐに保育器に入れられ、生まれた病院からNICU(新生児集中治療室)のある別の病院に救急搬送されました。
浩一さんがNICUで会えたのは日付が変わってから。美津恵さんは入院が長く、対面できたのは2週間後だったそうです。
初めて保育器の中にいる我が子に会ったときのことを、美津恵さんは「頭の中で想像した姿に比べてあまりにも小さく、細くて痛々しく感じられました」と振り返ります。
体にはチューブが通され、バタバタと動く我が子。呼吸が止まることもあり、そのたびに看護師さんが背中をたたいていた光景を覚えているそうです。
浩一さんも当時の「恐怖」を口にします。
「親として未熟だったと思いますが、安定していない姿を見ることは怖かった。当時は不安と喜びの日々でした。だんだん成長する喜びが勝っていきましたね」
名前「亮太」の「亮」の漢字には、「明るい」という意味があります。早産で生まれたこともあり、「『明るく、たくましく生きてほしい』と願いを込めてつけた」名前です。
山縣選手はNICUに55日間入院し、その後も感染症対策のために1年間は外出を止められていました。
外出禁止が解かれたあと、初めての家族旅行で行った先は三重県の伊勢神宮。広島から車で向かい、天橋立にも寄る計画を立てていました。
しかし、お参りに行った夜、呼吸や咳がひどくなり、急性喉頭炎のため緊急入院することに。インターネットがない時代、電話帳を開いて受診先を調べました。
浩一さんは、「2、3日の入院でしたが、NICUを出てからは初めてのことで、広島に連れて帰るのも怖かった」と思い返します。
その後も、高熱や肺炎で入院したり、毎年お正月は病院にお世話になったりしていました。小学生になった頃には、2歳年上の兄と変わらないような体力がつき、たくましく成長したそうです。
「体はずっと小さかったのですが、病気のことはほぼ頭になくなりました。肺が弱かったことはまったく感じさせないくらい。亮太は運がよかったんだと思います。すくすく育ってくれました」と美津恵さんは話します。
浩一さんは、山縣選手が生まれた日のことからNICUを退院するまで、両親の心境や息子の成長を日記に書き留めました。
「今見ても涙が出そうになる」という貴重な記録ですが、看護師に勧められたことがきっかけです。
日記を書いたのは、人生でこのときだけ。「書けと言われて始めた日記ですが、続けるモチベーションは『亮太が大きくなって、もしグレたら、そのとき見せてやろう』と、それだけだったんです。妻と冗談で話していました」と、照れくさそうに笑います。
グレることなくまっすぐ育った山縣選手。本人に日記を見せたことも、存在を話したこともありません。小さく生まれてNICUに入院していた日々のことも、改まって具体的に話したことはないといいます。
「事実として小さく生まれたことは伝えていましたが、あえて言う話ではないと思っていたんですよ」
息子に心配をかけないようにという気持ちと、「亮太の活動にマイナスになったらどうしよう」という思いがありました。
しかし、山縣選手自身は気に留めていません。小さく生まれた事実はあるものの、自ら道を切り開き、2021年6月には陸上男子100m9秒95の日本新記録を樹立しました。
浩一さんは「いま彼がやっていることは、彼自身の力や考えで成し遂げてきました。小さく生まれたことは彼の力ではどうにもならなかったのですが、ネガティブに捉えていないようでうれしく、安心します」と話します。
小学生のころ陸上に出会った山縣選手。兄が陸上大会で入賞した姿を見て「来年は僕も走りたい」と言ったことが始まりでした。
翌年、小学4年で出場した広島市の陸上大会100m走で優勝。地元の陸上クラブから誘いを受け、練習に参加しました。
浩一さんは、「『陸上をやりたい』と亮太が自分の気持ちで言ったのが、今も続けられている理由なのだと思います。きっかけをつかんだのは彼自身です」と話します。
体格は小さくても、両親は気にしていませんでした。「あの子の能力やセンスを一番だと思っていました。背が高い子に負けてもあまり気にはなりませんでしたし、信じ続けてこられたのが今につながっているのかもしれません」
山縣選手がまじめに陸上に取り組み、継続する姿を近くで見てきた浩一さんと美津恵さん。自身のケガや病気をネガティブに捉えるのではなく、「次に進むためのステップ」と受け止めて改善してきたことが日本記録につながったと感じています。
「思うようにいかないことは、陸上だけではなく社会生活の中でも起こります。次へ進むためにはこれが必要だったんだと思えれば気も楽ですし、それを実践しているのが彼なんだと思います。年々いい顔になっていますね」と浩一さんはほほえみます。
30年前、「生きてくれればいい」と願っていた両親。伊勢神宮にお参りしたときも、山縣選手が陸上を始めたときも、こんな人生が待っているとはまったく思っていませんでした。
日本記録を出した際、浩一さんは「神様のご褒美だと思う」と話し、地元紙の見出しには「神様のご褒美」と並びました。
「うれしかったですね。ご褒美をもらえたからうれしいのではなく、ご褒美をもらえるような生き方を、自然と彼がしてきた結果なのかなと思います」
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