連載
#111 #父親のモヤモヤ
がん宣告から12日後の妻との死別 「遺された僕」変えた3児の子育て
「妻は45歳の誕生日にがんの宣告を受けて、12日後に亡くなりました。遺された僕には子育ての経験値がありません。ルーキーがいきなり3人、しんどかったです」
京都市のNPO法人理事長、木本努さん(57)は2009年の冬の出来事をこう振り返ります。
呼吸の不調を訴えた妻の富美子さんが検査入院したのは1月末でした。富美子さんの誕生日の2月3日、木本さんは小学5年生の長男と選んだパープルのトレーナーを病室でプレゼントしました。
この日、木本さんは担当医から「胃がんは肺に転移しています。余命数カ月です」と告げられました。
木本さんは正直に富美子さんに伝えました。気丈にふるまう富美子さんからは、こんな言葉が返ってきたといいます。
「もっと早く検査すればよかった。ごめんね。仕事に支障が出るね」
転院を希望していた富美子さんは2日後、転院先の病院で診察を終え、1時間ほど自宅に戻りました。
その短い間にも富美子さんは部屋の掃除を始めました。子どもたちを抱きしめ、「お母さん、絶対に病気に勝って帰ってくるから」と言い残して転院先に向かいました。
それから10日後、富美子さんの容体は急変し、帰らぬ人となりました。
長男はお通夜で、こんな言葉を天上の富美子さんに贈りました。
「お母さんがいないとさみしいことがいっぱいです。100点とってもほめてくれない、家の掃除ができない、お母さんの料理が食べられない、一緒に寝られない、悲しいときになぐさめてくれない……でも、さみしくないよ。僕たちを見守ってください」
木本さんの家族には「夫は仕事、妻は家事」という役割分担が根付いていました。
清掃器具のレンタルサービス大手の加盟店で働く木本さんは、家のことを富美子さんに任せ、営業活動に明け暮れてきました。2006年にはオーナーから社長を任されました。
富美子さんが検査入院した時、木本さんは初めて洗濯機を回しました。お風呂の残り湯の移し方、洗剤の量、柔軟剤の入れ方、すべて富美子さんに教わりました。
台所に立ったことも、ほとんどありませんでした。
もう、富美子さんに家事のノウハウを教えてもらうことはできません。
幸い、近所に富美子さんの母親が住んでいました。オーナーも事情をくんでくれました。
それでも2歳、6歳、11歳の育児の日々は修羅場です。
朝は2歳の末っ子と幼稚園年長の次男の身支度を整え、3人の子どもと車で義母の家へ。
末っ子はそのまま一緒に会社に行き、自分が朝礼に出ている間にオーナーの奥さんに朝食の面倒を見てもらう。朝礼が終わると末っ子を乳児保育所に預け、職場に復帰。
夕方に仕事場を抜けて乳児保育所に向かい、末っ子を義母の家に届ける。そのタイミングで自宅に寄って洗濯を片付けることも。
再び仕事に戻っても午後6時には退社し、義母の家で夕食を食べ終えた子どもたちを迎えに行く――。
こんな生活が続きました。木本さん自身は「朝食抜き」の日ばかりでした。
家事は失敗の連続でした。
洗い終えた後の洗濯槽に手を突っ込むと、なにやらゼリー状のものが……。末っ子の紙オムツを誤って洗ってしまったのです。
これを繰り返すうちに、洗濯機は壊れてしまいました。
末っ子が夜にウンチを漏らして毛布につけた後、家族みんながノロウイルスにかかったこともあります。毛布を慌てて洗濯はしたものの、漂白剤などで消毒を施すべきでした。
そんなノウハウは病院に行った後、富美子さんが残してくれた「ママ友」から教えてもらいました。
病院に末っ子を連れて行くにしても、母子手帳がどこにしまってあるかを探すところから始まる始末です。
炊飯器でお米を炊こうとして、間違えて保温ボタンを押してしまったことも。お米はドロドロの洗濯のりのような状態になってしまいました。
ハンバーグを焼いてみたら、中が真っ赤で食べられない、といったことも日常茶飯事でした。
特に裁縫はずぶの素人。長男の少年野球のユニホームの背番号付けで困りました。
アイロンで貼るタイプで対応したら、チームから「みんなで使い回すユニホームなので縫ってください」と言われてしまいました。
仕事柄、掃除はできると思っていました。
けれども、2~11歳の3兄弟の散らかしぶりは予想以上。片付けても片付けても、部屋にものが散乱します。
木本さんは子どもたちが好きで、面倒も見ていけると漠然と考えていました。ただ、現実は予想以上に厳しいものでした。
「子どもが好きなだけで子育てはできないんだな。家事って、終わりがないんだな……」
木本さんは忙しすぎて、富美子さんとの死別の悲しみに向き合う暇もなかったといいます。
富美子さんが旅立って10カ月後、義母の家で不幸があり、頼れなくなりました。
子どもたちを預ける身寄りがなくなり、木本さんの本格的な「ワンオペ生活」が始まりました。
ただ、準備期間を経て家事のスキルは着実に向上していました。
もともと焼きそばとチャーハンぐらいしかつくれませんでしたが、唐揚げなどの油ものもマスターしていました。
料理をしながら洗濯機を回す、といった同時並行の家事も徐々に慣れてきました。家事の工夫が時間短縮につながり、「意外とおもしろいかも」と前向きにとらえられるようになっていきました。
むしろ、仕事で苦しみを覚えるようになりました。
かつては社長ながら営業活動に駆けずり回っていましたが、もう、子育てに配慮してもらいながらの働き方しかできません。
部長からは「社員にもっと厳しく指導してくださいよ」と言われました。職場で引け目を感じるなか、10人ほどの部下を管理できていないと感じました。
葛藤しながら働いてた2013年春、末っ子は小学校に入学しました。
ところが、夏ごろになると、木本さんのひざの上に座りたがるようになりました。異変を感じて小学校の先生に相談してみると、「寂しそうな顔をしている」といいます。
そんなとき、職場で「事件」が起きました。
木本さんはオーナーに呼ばれ、取引先との契約状況をただされました。
自分が交渉を終わらせて契約書を交わすだけの状態の案件で、夕方の家事とかち合ったため、最後にサインをもらう仕事を部下に任せたことがあると報告しました。「先方の担当者には私の事情も伝えてあります」とも説明しました。
すると、オーナーからは厳しい言葉が飛んできました。
「プライベートを持ち込むな。いつまでひきずっているねん」
木本さんはオーナーを信頼し、感謝して働いてきましたが、気持ちが吹っ切れました。
社長の代わりはいるけれど、父親の代わりはいない――。
会社を辞め、1年間は「専業主夫」になると決めました。
子どもたちが「ただいま!」と帰ってきて、木本さんが「お帰り」と迎える生活が始まりました。
次男は「ただいま、なんて初めて言ったわ」とつぶやきました。
子どもたちと過ごす時間は増え、末っ子も安心した表情を見せました。ウソを言っているときは、下を向いて笑うくせがあることも知りました。
やはり子育ては向き合う時間が必要なのだと感じました。
富美子さんの遺品を整理していると、男物の銀色のネックレスが出てきました。
「これ、僕へのプレゼントだったのかな……」
自然と涙がほおをつたりました。
仕事と家事で必死になっていたころは、悲しみがこみ上げても「泣いてはいけない」と自分に言い聞かせてきました。妻との死別にも、やっと正面から向き合えたように感じます。
外食はめっきり減り、時間のかかる煮込み料理にも挑戦しました。
子どもたちの「お父さん、いけるよ!」の声が喜びとなりました。
富美子さんの生前の言葉を思い出しました。
自分や子どもたちがガツガツと料理を食べ終えてしまうと、「もっとゆっくり食べてよ」と言っていました。木本さんは料理する側になり、富美子さんの気持ちが分かってきた気がします。
もう一つ、よみがえってくる言葉が「なんで上から目線なん?」です。
木本さんが「手伝おうか?」と声をかけたとき、富美子さんはやや不機嫌にこう返してきたそうです。「父は仕事、母は家事が当然だという昭和的な家族観のなかで生きてきた」という木本さんは、そのときは富美子さんの不満の意味が分かりませんでした。
家事は家のこと。みんなでやるのが当たり前。
「手伝おうか?」ではなく、「一緒にやろうか?」と語りかけるべきだったと木本さんは今、反省しています。
木本さんは貯金を取り崩しながらの1年間の専業主夫を経て、パートで働くようになりました。大切な人を亡くした喪失感からの立ち直りを支援する「グリーフケア」を学び、シングルファーザーとしての経験を踏まえた講演活動でも収入を得ました。
友人からは「自分が苦労したことを、みんなで一緒に学んだらどうか。絶対に役に立てるはずだ」とアドバイスされました。
「誰もが僕のような境遇になり得る」と改めて思い、料理や裁縫の教室などを開くNPOを設立しました。法人の名前はシンプルに「京都いえのこと勉強会」としました。
ただ、木本さんはNPOの経験を踏まえ、こう語ります。
「本来は父子家庭のコミュニティーをつくりたいのですが、実際のところ難しいですね。父子家庭の参加も増えましたが、教室を開催する土曜日は父子家庭にとって家事のゴールデンタイムです。家から出にくいでしょうし、本当に困っている人はコミュニティーに参加する余裕もないのだろうと思います」
実際、シングルファーザーの実態はどうなっているのでしょうか。厚生労働省の2016年度の「全国ひとり親世帯等調査」の結果をみてみましょう。
ひとり親に「困っていること」を問うと、父母ともに「家計」と答えた人が最も多くなりましたが、2番目は大きく異なります。シングルマザーが「仕事」(13.6%)なのに対し、シングルファーザーは「家事」が16.1%に上ります。母子家庭の母が「家事」と答えた2.3%と比べると差は歴然としています。
ひとり親の子どもに対する悩みについて、「食事・栄養」は母親が2.6%なのに対し父親は7.0%。「衣服・身のまわり」は母の0.8%の6倍にあたる4.8%となっています。
父子家庭の調査に取り組んできた松山東雲短大の浅沼裕治准教授(子ども家庭支援論)は「シングルファーザーが家事をはじめとする家族ケアに問題を抱えると、仕事にも支障が出てきます。木本さんは苦しみながらも切り抜けたケースと言えますが、深刻化すると子どもたちはネグレクト(育児放棄)の状態に置かれる懸念が生じます。長男や長女が親の代わりに家事を担うことになり、身体的・精神的な負担を背負ってしまうケースもあります」と警鐘を鳴らします。
さらに「シングルファーザーの苦境は『見えにくい』状態にあります。日本では『男は弱い自分を他者に見せてはいけない』といった規範意識が強いうえ、母子家庭に比べて数が少なく、連携しながら発信する動きが弱いのです」と指摘しました。
浅沼准教授は「行政側に家事も支援対象とする認識が広がり始めている」とみています。そして、悩みを抱えるシングルファーザーたちにこう呼びかけます。
「自治体の相談窓口に今の状況を伝えておくだけでも大切なことです。深刻な事態が起きた場合、行政側も支援をしやすくなるでしょう。恥ずかしがらず、自分の存在を知らせていくこと。これが大切です」
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