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バラエティー変えたレジェンドたち、視聴率に動じなかった松本人志

「あがり症」萩本欽一が壊した常識、センシティブなビートたけし、天性の身軽さ明石家さんま

欽ちゃんこと萩本欽一。当時36歳にしてゴールデンタイムを中心に週6本の番組を持ち(他にラジオ1本)、しかも全て企画から構成、演出までを自身で手がけていた。水曜16時、「スター誕生」(日本テレビ)の公開録画会場でゲームコーナーを工夫中=1978年1月、東京都文京区後楽園の後楽園ホール
欽ちゃんこと萩本欽一。当時36歳にしてゴールデンタイムを中心に週6本の番組を持ち(他にラジオ1本)、しかも全て企画から構成、演出までを自身で手がけていた。水曜16時、「スター誕生」(日本テレビ)の公開録画会場でゲームコーナーを工夫中=1978年1月、東京都文京区後楽園の後楽園ホール
出典: 朝日新聞

目次

ここ数年で若手や中堅芸人の番組が増え、ゴールデン帯から深夜帯まで幅広いバラエティーが放送されている。振り返れば、萩本欽一、いかりや長介、ビートたけし、明石家さんま、松本人志といったタレントがバラエティーを変えていった。テレビの常識を覆していったレジェンドたち。そこには、それぞれに共通する〝不器用さ〟があった。(ライター・鈴木旭)

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「視聴率100%男」萩本欽一

レギュラー番組の合計視聴率を足すと、1週間で100%を超えたことから「視聴率100%男」との異名を取ったコント55号・萩本欽一。1960年代後半に出演した演芸番組『大正テレビ寄席』(テレビ朝日系)でコンビの人気に火がつき、1970年代~1980年代は『欽ちゃんのドンとやってみよう!』(フジテレビ系)、『欽ちゃんのどこまでやるの!』(テレビ朝日系)といった番組で司会者を務めるなど大活躍した。

バラエティーでの“素人イジり”を編み出し、自身の舞台や番組によって関根勤、小堺一機、勝俣州和といったタレントの活動の幅を広げ、自身の座付き作家集団「パジャマ党」を結成・育成するなど、芸能界・テレビ業界における萩本の功績も実に大きい。まさにお笑い界のレジェンドだ。

しかし、そんな萩本の駆け出し時代は失敗の連続だった。浅草の東洋劇場で修業を始めると、数カ月で演出家から「コメディアンに向いていない」と言われた。歌唱力もなく、リズム感もない。おまけに極度のあがり症でうまくセリフを口にできなかったのだ。

臆病ゆえに新境地を切り開いた

一度はコメディアンの道をあきらめようとしたが、周りから引き止められ萩本はなんとか踏みとどまる。その後、東八郎といった先輩たちから基礎を叩き込まれると、次第にコメディアンとしての技量が磨かれていった。

坂上二郎とコント55号を結成すると、舞台をいっぱいに使って端から端まで駆けずり回り、アドリブ重視のやり取りを見せるコントで脚光を浴びる。そのスタイルは、まさにテレビの定石をくつがえす表現だった。

また、萩本は「欽ちゃんのことは怒らない」という約束のもとで、『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』(日本テレビ系)の出演依頼を引き受けたりもしている。(小林信彦、萩本欽一著『小林信彦 萩本欽一 ふたりの笑タイム 名喜劇人たちの横顔・素顔・舞台裏』(集英社文庫)より)

好奇心旺盛な一方、不器用で臆病な萩本だったからこそ、バラエティーの新境地を切り開いたと言えるだろう。

萩本欽一さん=2016年8月10日、山本和生撮影
萩本欽一さん=2016年8月10日、山本和生撮影
出典: 朝日新聞

不器用で口下手ないかりや長介

萩本より少し遅れて台頭したのが音楽コントグループのザ・ドリフターズだった。1969年にスタートした『8時だョ!全員集合』(TBS系)で一世を風靡。最高視聴率50.5%を叩き出す怪物番組となった。

本物の建物同然の舞台セットを組み、屋根の上をパトカーが疾走したり、全体が崩れる“屋台崩し”でオチを迎えたりするド派手な演出。時にゾウやラクダを登場させ、時にディズニーランドのアトラクションを思わせる舞台美術でも視聴者の目を引いた。ドラマ顔負けのセット、練りに練った台本と5人のチームワークによって、ドリフにしか成しえない笑いを生み出していった。

1970年代に全盛期を迎え、1985年まで続いた『全員集合』は、ドリフのリーダーであるいかりや長介の性格が大きく反映されている。番組プロデューサーの居作昌果は、著書「8時だヨ!全員集合伝説」(双葉文庫)の中でこう語っている。

「リーダーのいかりや長介は、どちらかというと、不器用な男である。おまけに口下手でもある。(中略)ハプニングに器用に反応したり、アドリブのトークで受けまくるということの苦手な男なのである。そのかわりに、ギャグをじっくりと考えていくのが、大好きなのである」

今年7月3日、ニコニコ生放送で配信された「【ドリフ&ももクロ新番組】もリフのじかん【第1回】」の中で、加藤茶は「(いかりやは)学校コントだと机に(ネタのカンペを)貼ってある」「リハーサル一生懸命やるのは、あの人(いかりや)のためにやるんだから」と口にしている。

いかりやは、荒井注を除けばグループの最年長者だった。人気絶頂の1970年代は、すでに40代である。コントの構成を考えたり、ネタのモチーフを見付けたりすることには長けていたものの、演者としては世代交代を意識していた時期だったのかもしれない。

そう考えると、1974年に19歳下の志村けんがドリフの正式メンバーとして加入した意味は非常に大きい。いかりやがネタの大枠を作って権力者を演じ、若い志村と加藤が本番でかき回す。まさに凸凹を補うような関係性がドリフの笑いに直結していたのだ。

いかりや長介=2000年6月28日
いかりや長介=2000年6月28日
出典: 朝日新聞

バラエティー飛躍させたビートたけし、明石家さんま

1980年代に入ると、タレントのキャラクターそのものが新たなバラエティーを生み出すようになっていく。萩本欽一はその土台を作ったと言えるが、幼少期からテレビを見てきた世代がさらなる一歩を踏み出した。

その代表的な2人がビートたけしと明石家さんまだ。1981年5月にスタートした『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)で共演し、いずれも番組の顔として活躍。並行して、他番組でもそれぞれの個性が花開いていった。

たけしは、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(日本テレビ系)、『ビートたけしのスポーツ大将』(テレビ朝日系)、1990年代には『たけし・逸見の平成教育委員会』(フジテレビ系)など、過激な企画ものからスポーツ、教養系バラエティーまで幅広い番組をヒットさせている。

一方のさんまは、『笑っていいとも!』、『さんまのまんま』(ともにフジテレビ系)、TBS系列の『男女7人』シリーズなど、バラエティーだけでなくドラマでも活躍。1990年代に始まった『恋のから騒ぎ』、『踊る!さんま御殿!!』(ともに日本テレビ系)では、圧倒的なトーク術による独自路線を切り開いた。

ノミの心臓、修業中に駆け落ち

そんなレジェンド2人は、まるで違った特性(ある意味では弱点)を持っていた。

たけしは、漫才ブームの起点となった『花王名人劇場』(関西テレビ制作/フジテレビ系)、『THE MANZAI』(フジテレビ系)で脚光を浴び、次世代のスターとして期待されていたが難点もあった。それは毒舌ではない。非常にセンシティブな一面を持っていたことだ。

その繊細さを『ひょうきん族』の初代プロデューサー・横澤彪は、著書「テレビの笑いを変えた男横澤彪かく語りき」(扶桑社)の中で「ノミの心臓」と表現している。また、放送作家・タレントの高田文夫は、伝説的なラジオ番組『ビートたけしのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)をスタートさせるにあたって、当時たけしが所属していた太田プロダクションの副社長から「人一倍人見知りするタケちゃんのために、高田(文夫)さんが必ずついてること。これだけが条件!」と伝えられたという。(高田文夫著「誰も書けなかった「笑芸論」 森繁久彌からビートたけしまで」(講談社文庫)より)

繊細ゆえに鋭利な才能を発揮した一方で、フライデー襲撃事件や原付バイク事故を起こすような危うさもあった。その点を考えると、たけしの成功には高田文夫をはじめとする理解者の存在も大きかったであろうことが想像される。

さんまは、桂三枝(現:桂文枝)が司会を務める『ヤングおー!おー!』(毎日放送、現:MBSテレビ)の出演をきっかけに、関西でアイドル的な人気を博した。しかし、その経緯は一本筋ではない。そもそもは落語家・笑福亭松之助に弟子入りした身である。本来ならば高座で芸を磨くべき道だが、天性の身軽さもあり入門して数カ月で駆け落ちしてしまった。

修業を放り出し、当時交際していた彼女とともに上京。しばらくすると今度は、東京の生活がままならなくなって大阪へと戻った。再会した松之助はさんまを叱るどころか、落語家に縛られないテレビタレントへの道を勧めた。

ちなみに「明石家」は、このタイミングでつけられている。松之助の本名「明石」に家をつけ、笑福亭一門や落語関係者からの風当たりが強くならないよう松之助が配慮したのだ。(エムカク著「明石家さんまヒストリー1 1955~1981 「明石家さんま」の誕生」(新潮社)より)

しきたりよりも個性を尊重してくれる師匠の存在があったからこそ、早い段階でさんまの才能が開花したのだと思えてならない。

襲名披露の大千穐楽公演で、創作落語の披露を前に、明石家さんま(右)らから祝福される桂文枝=2014年3月8日、大阪市北区、林敏行撮影
襲名披露の大千穐楽公演で、創作落語の披露を前に、明石家さんま(右)らから祝福される桂文枝=2014年3月8日、大阪市北区、林敏行撮影 出典: 朝日新聞

“笑いの求道者”松本人志

1980年代後半から「お笑い第三世代」の一組として台頭し、長らく第一線で活躍し続けているのがダウンタウン・松本人志だ。

1987年4月にスタートした『4時ですよーだ』(毎日放送、現:MBSテレビ)の出演によって、関西でアイドル的人気を博すと、翌1988年10月に始まった関東ローカル(のちに全国区)の『夢で逢えたら』(フジテレビ系)を皮切りに若者から熱烈に支持された。

コンビでは『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』(日本テレビ系)、『ダウンタウンのごっつええ感じ』(フジテレビ系)といった番組で新たな笑いの形を提示し、また松本個人でも大喜利形式の番組『一人ごっつ』(前同)をスタートさせるなど、“笑いの求道者”としてカリスマ性を帯びていく。

2000年代に入ると、『M-1グランプリ』(テレビ朝日系)で審査員を務め、『人志松本のすべらない話』(フジテレビ系)をスタートさせるなど、徐々に後輩の活躍を後押しするようなポジションへと移り始める。

以降、『IPPONグランプリ』(前同)の大会チェアマン、『ドキュメンタル』(Amazonプライム・ビデオ。後にフジテレビの特番『まっちゃんねる』内で「女子メンタル」「イケメンタル」が放送された)の発案・監修、『探偵!ナイトスクープ』(朝日放送テレビ制作)の3代目局長を務めるなど、プロデューサー的なスタンスが定着。巧妙に自身の立ち位置を変えながら、今も尚バラエティーの可能性を広げるスペシャリストだ。

革新的だったゆえに理解されなかった

革新的な笑いのセンスを持った松本だからこそ、理解されるまでには時間が掛かった。

1982年にNSC1期生として入学し、間もなく「今宮戎 マンザイ新人コンクール」で福笑い大賞を受賞。幸先はよかったが、その後しばらく厳しい状況が続く。劇場の観客は年配者ばかりで、ダウンタウンの持ち味が評価されなかったのだ。

転機は1986年5月。ダウンタウンが定期的にイベントを行っていた「南海ホール」が「心斎橋筋2丁目劇場」と名称を変えてリニューアルオープン。若者をターゲットとしたこの劇場で、ダウンタウンは本来の実力を発揮し始める。翌年4月には、2丁目劇場から生放送される『4時ですよーだ』がスタートし人気が爆発した。

その後、東京進出というもう一つ大きなハードルが立ちはだかる。東京キー局で初の冠番組『ガキの使い』(1989年10月~)は、スタートして半年で視聴率が低迷。持ちネタがなくなり、フリートークに切り替えて間もなくのタイミングだった。当時、番組プロデューサーを務めていた菅賢治から「もう一度、ネタをやってほしい」といった趣旨の相談を受けた松本は、こう切り返したという。

「僕は菅さんに、『数字はどうかは知らんけど、とりあえず番組やってて楽(たの)しないですか?』って聞いたんですよ。そしたら、『楽しい』って。それで、僕は『でしょ? 僕もやってて楽しいし、オン・エアを見てもおもろい。せやのになんで変えやなあかんかわかりません』って言った記憶があります」(伊藤愛子著「ダウンタウンの理由」(集英社)より)

このこだわりは、時間を掛けて幅広い視聴者へと伝わった。フリートークのみならず、番組企画の一つ「笑ってはいけない」シリーズも大当たりし、今や年末特番の代名詞となっている。一時的な視聴率ではなく、「演者や制作スタッフが楽しいかどうか」を優先させた先に結果がついてきたのだ。

挑戦し続ける姿勢、一抹の寂しさ

今年6月12日に放送された『キングオブコントの会』(TBS系)で、松本はコント2作品を発表した。いまだに挑戦し続ける姿勢にも感服する。

松本以降、バラエティーをけん引するタレントとして、バナナマンや有吉弘行、サンドウィッチマン、オードリー、千鳥といった名前が挙がる。いずれも非常に柔軟で、それぞれの芸風も面白い。好感度も高く、時代にもマッチしている。演者としては、これ以上なく優れた面々だ。

しかし、これまで見てきた5人に比べると、殻を破るような革新性に欠ける。「わかりやすさ」を重視する制作サイドの意向に寄り添い、番組スタッフとタッグを組んで安定感のある良質なコンテンツを届けているのは間違いない。だからこそ支持されているし、だからこそ枠からはみ出すこともないのだ。

テレビは、常に異物から変わっていった。倫理が問われやすい今のバラエティーにそれを求めるのは酷なのかもしれない。ただ、あまりに驚きがないのもテレビ離れにつながるのではないか。『ガキの使い』スタートから約30年。後進の活躍に期待しつつ、松本以降にワクワクするコンテンツはもう出てこないのかと一抹の寂しさも感じてしまうのだ。

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