コラム
「薬ないと死んじゃうでしょ」暖房止まる中で考えた車いす目線の理想
対策は結果的に、「ひとに優しい街、社会づくり」になる
コラム
対策は結果的に、「ひとに優しい街、社会づくり」になる
10年前の東日本大震災、車いすユーザーの篭田雪江さんも経験しました。そこで感じた避難生活の不安は10年を経て解消されているのでしょうか。災害に見舞われることの多い日本で、備えはどう進めていくべきなのか。障がい者の視点から綴ってもらいました。
地震だ!
2011年3月11日。父の怒号のようなひと言で、当時から東北地方の某市に住んでいた私たち家族の東日本大震災ははじまった。
私はその日、仕事を早退し、両親を乗せて車を走らせていた。父が脳神経内科へ診察とMRIの予約に行くのに、母と共に付き添うためだった。30分ほどで診察と予約手続きが終わると医院を出て、実家へと車を走らせはじめた。
ほどなく、車体がくらくらと揺れはじめたのに気づいた。風が出てきたかと思っていると、そばにあった薬局の薬剤師らしき女性四人が駐車場で、ひどくうろたえた表情で肩を抱き合っていた。
なにしてるんだろう? 車内で母と私が首をかしげていると、父が冒頭のひと言を叫んだのである。
まわりを見渡し、息が一瞬止まった。電柱や電線があり得ないほど揺れていたのだ。車体の揺れもはげしくなっていたのでこのまま走るのは無理と、路肩に車を停めた。かえって揺れが激しく感じられ、ハンドルにすがりついた。カーナビのテレビをつけると東北で震度7(8だったかもしれない。このあたり記憶が曖昧だ)の地震が起きたと、混乱状態の臨時ニュースが流れていた。すぐそばに中華料理店があったのだが、店長やその家族、店員、客が青い顔で出ては戻りを繰り返していた。
その後、余震のすき間を狙って車を再び走らせた。国道に出て驚いた。信号が消えていたのだ。そのせいでひどく混み合っている。なんとか合流し、交差点に出るたび極度の緊張を強いられながら、なんとか実家に帰った。
信号が止まっていたのだから当然電気も止まっている。暖房のない居間で真っ先にしたのが、まだ職場にいるパートナーへの連絡だった。携帯電話は電波が混乱し、通話もメールもなかなかつながらなかった。やっとつながったのは15分後くらいだったろうか。職場では今日は帰れる者は早退することになったとのことだった。今実家にいるのでそこに来るよう伝えた。実家の方が当時の私たちのアパートより近かったからだ。
そういっても職場から実家まで来るのも今は危険だ。なにせ信号が止まっているのだから。家にいても寒いし落ち着かないだけなので、パートナーがやって来るはずの通りに出た。混雑を極めた道路をひたすら見つめた。1時間近くたってパートナーの車が見え、無事に出会えた。全身のちからが抜けた。
私にとって厳しかったのは、ここからだった。
夕方になるにつれ寒さが厳しくきた。ジャンパーと手袋が家のなかでもはずせない。ガソリンが減るのを覚悟で(この翌日から私の町ではガソリン供給が滞ってスタンドには行列ができ、給油量制限もあった)、車に戻り暖房を全開にして体を一度暖めて、また家に戻るのを繰り返した。車いすのリムがとにかく冷たかった。
夜はガスコンロで沸かしたお湯で即席めんとスープを夕食とし、家族で食べた。本来なら夕食後と就寝後の薬をこの後飲まねばならないのだが、普段の住まいは別のアパートだったため実家にはない。しかしすでにあたりは暗く、信号も消えた道をアパートまで車を走らせる体力気力はなかった。
トイレに行かなくていいの、とパートナーがたずねてきた(幸い水道は生きていた)。あまり飲み食いをしていないので尿は出そうになかったが、排泄しない状態が続くと当時すでに悪化しはじめていた腎臓に悪いのはわかっていたので、無理矢理冷えたトイレに行った。懐中電灯でみると色の状態がよくない尿がわずかだけ出ていた。便が出なかったので普段はあまりやらない摘便(肛門に直接指を入れて便を出す排泄方法。ゴム手袋などを用いて行う。私は普段持ち歩いているバッグにゴム手袋を入れている)で便を出した。
あるだけの布団を母に出してもらい居間に雑魚寝した。ろうそくとラジオはつけっぱなしにした。だが津波で東北太平洋側の市町村が壊滅状態、というニュースが流れるたび、寒さで縮んだ身がさらにこわばった。ほとんど眠れなかった。
夜が明けてからも余震と寒さでからだはこわばっていた。缶詰の簡単な朝食を済ませるとパートナーが言った。
「薬とか、あと食べられるものアパートに取りに行ってくる」
私は首を振った。信号はまだ止まっているはずだ。いくら流れのようなものができているといってもなにが起きるかわからない。だがパートナーは次の言葉を残して出かけていった。必死だった彼女が言ったその言葉は今も忘れられない。
「薬がなきゃ、死んじゃうでしょ」
帰ってきたのは一時間後くらいか。普段なら往復で10分たらずの道だ。
何度も礼を言って薬の袋を受け取り、朝食後の薬を飲んだ。この時がもっとも、これでなんとか生きていけると感じた瞬間だったように思う。実際、薬を飲む前あたりから体調がかなり悪くなっていた。
食料を求めようと近所のコンビニに行くと、通路が客であふれていた。棚の品物は普段の3分の1もなかった。客は整然と列に並び、レジ担当の女性ふたりが血相を変え会計をしていた。外に出ると、電柱にのぼり復旧工事を行っている作業員の男性が見えた。
電気が復旧したのは夕方前だった。アパートに帰り、電気ストーブの前に手をかざした時、ようやくひと心地がついた――。
以上、急ぎ足だが、私が体験した東日本大震災を記してみた。もちろんその後も様々なことがあったが、まずは割愛する。
この震災での障がい者の死亡率は、他住民全体のそれより2倍にものぼったとは、震災直後から言われてきたことであり、ある統計を見ても実際そのような数値になっている。宮城県のある町では全体の死亡率が約5%なのに対し、障がい者全体では約12.5%、身体障がい者に限ると約15%にも及んでいる(NHK福祉情報総合サイト ハートネット 東日本大震災時のデータ(障害者の死亡率)より)。
私の住む町は東北ではあったが、津波や建物等の崩壊はほぼない地域にあった。電気や水道の供給ストップ、物流停止による物不足などの影響はしばらく続いたものの、震災の数日後からはほぼ元の生活に戻ることができた。被災地の方々には申し訳ありませんと謝罪したいほどに。
もし私が甚大な被災に遭った地域に住んでいた場合。上記の数値や、当時の障がいを持った被災者の方々の状況、自身の身体状態を合わせて鑑みると一体どうなっていたか。被災地にいた障がい者の方々の実態を知れば知るほど、私の想像の範囲を超えてしまう。
車いすユーザーの被災者が避難所である体育館に向かったけれども、多くのひとがいてトイレさえ行けずに引き返した(「震災時の障害者 地域と当事者ネットワークを活かして」第34回兵庫自治研集会 第3分科会 自然災害に強いまちづくり~災害から見えた自治体の役割~ より)。慢性腎臓病の方が避難所に避難したものの、配給されるおにぎりは塩分の強いものが多く、なかなか食べられなかったという話も、地元の腎不全患者団体の会報で読んだ。
身近にも、当時の職場の社会福祉法人には人工透析をしている方が何人かいたが、その方たちは普段透析をしている病院の機能が停止したため、他の透析施設を探すのにかなり苦労し、実際にしばらく体調を崩された方もいた。
苦難は障がい者の被災者の数だけあったはずだ。
私がそんな立場だったら、と時々疑似体験する。家族に背負われ、車いすを担がれて津波から高台に逃れられただろうか。生き延びて避難所に入れたとしても、排泄は囲われた段ボールのなかで臭いを気にしつつ行わねばならなかっただろうか。薬をなくしていたら医療チームの方に懇願して薬をください、と土下座するように頼んだだろうか。食事が塩分の高いおにぎりだけだったら血圧が上がらないように、具材の梅干しや塩昆布をのぞいて食べただろうか。
今は当時より体調が悪化している。あの時よりもはるかに薬が増え、自己導尿も課せられた。電気の復旧した翌日夕方近くまで、今のこのからだが持ちこたえられたか。きっと当時よりも体調を崩しただろう。
先にあげた統計や、障がいを持つ被災者の状況からもわかる通り、震災、あるいは昨今の豪雨災害のような非常時、私たち障がい者も含め、高齢者、重度の持病がある方等は、本当に厳しい立場に追い込まれる。日常でさえやっとの思いで過ごしている身なのだ。
具体的な対策は各所で作られている。私のいた職場でも後に、震災時の避難マニュアルが作成された。年に一度の避難訓練ではわざとごみ箱やロッカーなどを廊下に倒した状態で行い、それを車いすでよけて通ったり、職員がおぶって行ったりもした。
それらの対策は精緻に作られたものと思う。だが被災弱者の一当事者の意見を許していただけるなら、そこには絶対欠かしてはならない視点があるように感じている。
それは「当事者目線」で、「当事者のリアルな声を取り入れて」立てた対策か、ということだ。
災害時、厳しい立場になる私たち障がい者、高齢者や持病を抱えた方々の目線に立ち、意見を取り入れた対策であるか。私に引き寄せて言いかえれば「車いすに乗った目線」で作った対策であるか。それが不可欠ではないか、と強く思うのだ。
私たちも自身を守るための備え、地域への自分たちの現状周知、必要な提言をすべきなのは重々承知で、実際私たちもできるだけのことはしている。だがそれが難しい、声も上げられない当事者の方が多数なのもまた現実だ。
私たちは「自らを守ること」「自助」が、本当に困難な存在だ。
震災時、私は自分ひとりではなにもできなかった。薬がないだけで死を感じた。そんな私を含めた災害弱者をいかに救うか。
私が「当事者視線」、「車いす目線」の災害対策にこだわるのにはひとつ理由がある。
それは「当事者目線」の災害対策が、結果的には日常時の生活にも反映され、最終的には障がいや年齢、持病の有無に関わらず「ひとに優しい街、社会づくり」につながると信じている、ということだ。
「当事者目線」があれば、今は公共施設や大型ショッピングモールに限定されることの多い多目的トイレやスロープ、エレベーターが小型店舗にも作られ、誰でもためらいなく入れるようになる。道路や建物の階段や段差。駅でみられる列車とホームの隙間。車いすでは届かないところに陳列されている店舗の品々。点字ブロックの損壊。挙げればきりのない「障害」も減っていく。そんな街は健常者にだって優しく住みやすいはずだ。これらも甘い理想との自覚はある。だが「理想」が前提にないと「現実」にはならない。だから私はこの甘い理想を敢えて述べ続けたいのだ。
「当事者目線」「車いす目線」が、最後には非常、日常時関係なく、すべてのひとたちが呼吸しやすい街になる。震災から10年という節目に、そんな思いを語らせていただいた。
最後になりましたが、東日本大震災で亡くなられた方々のご冥福と、被災された方々へのお見舞いを、慎んでお祈りさせていただきます。
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