東日本大震災から今年で10年。福島第一原発事故の後、福島県ではいまだ人が住めない「村」があります。浪江町津島地区(旧津島村)。人口1400人ほどだった山あいの集落は放射線量が高く、今も帰還困難区域に指定されています。その地区を一戸一戸、ドローンで空撮するプロジェクトが2019年6月から1年がかりで行われました。「ふるさとの映像を何とかして残したい」。住民の熱意を受け、全520戸の撮影を担当した野田雅也さん(46)に話を聞きました。
――津島地区の空撮を始めたきっかけは。
話は2017年にさかのぼります。その年、津島地区の一部が特定復興再生拠点に認定されました。2023年には住民が生活できるよう、除染などを進める計画ですが、インフラ整備のため、家屋の解体も決まりました。
避難から何年も経ち、人が住まなくなった家は廃れていっていました。避難先で暮らす住民の方たちも、整備が必要なことは理解しつつも、「どうにかして、今の姿を残せないか」と考えていたそうです。
そして2019年5月、福島県飯舘村など被災地でドローン撮影をしていた私のところに知人を通じて「何とかなりませんか」と話がきました。
私はフォトジャーナリストとして、アジアの紛争地帯や災害現場を取材してきました。東日本大震災が起きたときは東京にいましたが、翌日には仲間のジャーナリストたちと福島に。以来、被災地のこれまでをドローンも使って、映像におさめてきました。
住民から相談があったのは解体が始まる1カ月前でしたが、津島の人たちとも交流があったので「力になりたい」と引き受けました。
――全ての撮影が完了するまで約1年かかりました。
映像に残す方法として、「津島地区全体として空撮」「全520戸を一戸ずつ撮影」の二通りがありました。住民がつくった「ふるさと津島を映像で残す会」に尋ねたところ、選んだのは「全員の家を撮る」ことでした。
帰還困難区域ですので地区への入り口は今もバリケードが置かれ、撮影にも役場や警察の許可を得る必要があります。滞在時間も限られますので、手間も費用もかかる。実際、地図を見てドローンを飛ばしたけど、草木が生い茂って一度では住居を探せなかったときもありました。
それでも全ての家を撮影できたのは、「一つも撮り逃したくない」という残す会の強い思いがあったからでした。撮影中、「ここはねえ、○○ちゃんがいてね。隣の家は○○ちゃんでね……」とみなさん名前で呼び合うんです。
津島地区は周囲を阿武隈山系に囲まれていて、集落の結びつきが強い。1年間で延べ1カ月以上の撮影をしましたが、同行した住民たちが毎回、ふるさとへの思いを語ってくれました。
1年かかったのは、「桜を撮りたい」という要望があったからです。山を切りひらいて建てた家に植えられた桜は、毎年きれいな花を咲かせていました。撮影のスタートが初夏だったので、最後に満開の桜を撮れるよう進めていきました。
――印象に残っていることは何ですか。
自宅の撮影に同行した女性が「これで家を壊せる」と言ったんです。避難からもうすぐ10年。「ふるさとへ戻りたい」と願っていた人たちの中にも月日が経つにつれ、あきらめの気持ちが出ている人もいます。ある男性は「避難先で生活の基盤を築いた息子は『もう帰らない』とはっきり言っている。津島の歴史は私の代で終わりです」と話しました。
プロジェクトは空撮だけではなく、住民にインタビューをしたり、津島の自然や伝統芸能を撮ったりもしました。後世にも伝えることができる「ふるさとの記憶」を映像に閉じ込め、自分の気持ちに区切りをつけていた住民の姿が今も心に残っています。
あとは、撮影費用をクラウドファンディングで募ったところ、150人を超える方から、200万円の支援をいただきました。先行してダイジェスト版の映像をDVDにしたのですが、津島出身の方など全国各地から反応があり、ふるさとの姿を残したいと願った住民の思いが多くの人に届いてうれしいです。
現在は撮影した全520戸を収録した完全版の作成が大詰めを迎えています。「映像は私たちが帰れる場所」と心待ちにする住民の期待に応えられるよう、しっかり完成させたいです。