お金と仕事
Jリーグ引退後、25歳で大学受験「新卒」の就活でいきた戦力外の経験
選手時代のプレー分析、営業の武器に
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選手時代のプレー分析、営業の武器に
高校卒業後、J1清水エスパルスと契約をした谷川烈さん(40)。2回の戦力外通告を受けた後、25歳で大学進学を決意しました。「新卒」で大手企業に就職し、希望の海外営業として働く中、元々興味のあった「起業」という言葉が常に頭の中にあったといいます。35歳で異業界のベンチャー企業へ転職。人の上に立つ立場となった今、現役時代に出会った監督たちの「コミュニケーション力」を思い出すと言う谷川さんに、セカンドキャリアの築き方を聞きました。(ライター・小野ヒデコ)
谷川烈(たにかわ・つよし)
18歳でJ1清水エスパルスに入団し、4年間プレーをしました。2回目の戦力外通告を受けたのは、J2水戸ホーリーホックに所属していた24歳の時です。毎日死ぬ気でトレーニングに打ち込みましたが、8試合出場、1得点のみと、十分な結果は残せませんでした。この時、「日本代表となってワールドカップに出場する」という長年の夢はかなわないことを悟り、引退を考えました。
ただ、「引退後なにをするか?」を考えたときに、自分は何がやりたいのかイメージが湧きませんでした。これまでサッカー中心の生活を送ってきたため、社会を知らなかったこともあり、色々学びながらどういう人生にしたいかを考えたいと思いました。そして、大学への進学を決意しました。
戦力通告を受けたのは12月だったため、直近の受験まであと数カ月しかありませんでした。1年見送って受験勉強に励むべきか悩んだのですが、25歳で1年間まるまる受験勉強に費やすのはもったいないと考え、そのタイミングから準備をして間に合う大学があるか探しました。
その中で見つけたのが、法政大学キャリアデザイン学部です。キャリアを考えることを目的としている学部で一般教養はもちろん、経営や社会について、さらに当時から興味のあったベンチャー企業をテーマにしたゼミもあるということだったので、自分にぴったりだと思い、受験をすることにしました。
受験科目は小論文と面接。父が新聞記者だったので、毎日2本小論文を書き、それを添削してもらうというトレーニングを徹底的にやりました。そのかいもあり、無事に合格し、25歳で大学1年生になりました。
同級生とは6個年齢が離れていましたが、全く問題なかったです。ゼミの先生は、杉本哲哉さんといって、マーケティングリサーチの会社「マクロミル」の創業者でした。そして、現在勤務するグライダーアソシエイツの社長でもある人です。
初めて講義を受けた時、ものの10分で杉本さんの人間性と圧倒的な知識量に衝撃を受けました。「こういう人になりたい」とサッカーに変わる目標ができた瞬間でした。その出会いから、10年以上の付き合いになります。
就職活動においては、25歳でわざわざ大学に進学したのだから、自分が納得する企業に入りたいと強く思っていました。まずはビジネスの世界で活躍している方に話を聞きたいと思い、100社ほどの人に会いに行きました。
自己分析を重ねた結果、「将来、自分で事業を興す際に必要な力が身に付くところ」と「グローバルな視点で仕事ができるところ」という2軸で就職活動に挑みました。いつか起業家になりたいという思いがあったのと、サッカーで叶えられなかった「グローバルに活躍する」人間になりたいという気持ちがあったからです。
そして、就活本番。まずは、筆記試験で足切りされるのだけは避けたいと思い毎日図書館にこもって勉強しました。その結果、筆記で落とされることはなかったですね。
書類選考では、年齢が原因で落とされたと思うこともありましたが、面接まで進んだ企業からはほとんど内定をもらうことができました。面接では、20代で2度戦力通告を受けたけれど大学受験をしてはい上がってきたことを強みの一つとしてアピールしました。
最終的に、ブリヂストンへの入社を決めました。グローバル企業で、得意な英語を生かして海外を舞台に活躍したいと思ったことと、恩師である杉本さんから「まずはブリヂストンのような大きな企業がどのように動いているかを学んだ方がいい」というアドバイスをもらったことも決め手となりました。
入社後は、第一志望だった海外営業に配属になり、ロシア事業部という部署で旧ソ連諸国を担当し、頻繁に海外に出張する日々を送ってしました。
働く上で、現役時代の経験が役に立ったことは数多くありますが、次の2点は特に私の強みになっています。1点目は、PDCAを回す習慣が身に付いていること。自身のサッカーのプレーで、できたこと、できなかったことを「因数分解」し、何が足りないかを分析し、課題をあぶり出し、それを克服するためにトレーニングするというサイクルをずっと回してきました。それと同じことを、仕事でも実行しています。
2点目は、清水エスパルス時代のコーチだった大木武さんから言われた「長い目で見て右肩上がりになっていればそれで良い」という考え方です。現役時代の学びは、働く上でも糧になっています。
ブリヂストンは、働く環境としては文句なしでしたが、頭の片隅に「いつか自分で事業を興したい」という思いが常にありました。入社から6年経ち、ゼミの恩師である杉本さんに相談しに行ったところ、「ブリヂストンを辞めてすぐに起業するよりも、一度スタートアップ企業がどういうものか見た方がいい」とアドバイスをもらいました。
ちょうどそのタイミングで、杉本さんがメディア事業を展開するグライダーアソシエイツという会社を立ち上げて3年目でしたので、私から「行かせてください」とお願いし、転職を決めました。
2015年7月にグライダーアソシエイツに入社し、広告の営業をしてきました。タイヤメーカーからデジタルメディアへという全く異なる業界への転職だったので、はじめは大変でしたね。
専門用語や業界構造など、わからないことだらけでしたが、本を読んだり、人に聞いたり、必死に勉強しました。また、入社直後は「アポイント数でNo.1になる」という目標を設定し、愚直に顧客開拓に励みました。お客様に自分のことを覚えてもらうために、「元Jリーガー」というのは積極的に使いましたね。
努力が実を結び、2、3、4年目は営業成績でトップになりました。結果を残せたのはうれしい半面、次第にいかにチームで大きな成果を出していくかということを考えるようになりました。元々、チームプレーで戦うことが好きなので、大好きな仲間と今の会社をより良くしていきたいと常に思っています。
今は部下をもつ立場になりました。マネジメントの面では、現役時代に数々の監督やコーチの元でプレーしたことが役立っていると感じています。
特に印象深い監督が2人います。一人は清水エスパルスの監督だった、アルゼンチン出身のオズワルド・アルディレス氏です。選手との距離が近く、とにかく選手を褒める。たとえミスをしても積極的にトライしたプレーであれば褒めてくれました。
もう一人は、アルディレス氏の後任の監督でイギリス出身のスティーブ・ペリマン氏です。サッカーチームには、選手以外にもスタッフがいるのですが、洗濯を担当する人、芝を刈る人にも「元気?」といつも気さくに声をかけていました。その影響もあり、チーム全体の雰囲気が非常に良かったです。
私は清水エスパルス時代、試合に出る機会が少ない選手でした。でも、その2人の監督は私の伸びているところや課題を細かく伝えてくれました。その言葉に、何度も背中を押されました。
コミュニケーションの総量が多いチームは強いということを経験上知っているため、部下をもつようになった今は、それを強く意識しています。
新型コロナウイルスの影響により、3月から在宅勤務が続いています。対面で会えない分、毎朝30分チーム全体でテレビ会議をしています。コロナ禍で逆境ではありますが、コミュニケーションの量は以前よりもむしろ上がっているので、それが結果につながってきています。
私はサッカー選手として、ワールドカップ出場の夢は成し遂げられませんでしたが、将来、自分で興した事業で成功し、Jリーグクラブのオーナーになるという目標に向かってこのまま突き進みたいと思っています。
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