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連載

#5 東日本大震災8年

いわきの女性から届いた一通のメール “ほっき飯”と東日本大震災

「東日本大震災復興フェア」を企画して岩手、宮城、福島を回る中で、ある女性に出会いました。

福島県いわき市で「食処 くさの根」という食堂を経営する新谷尚美さん
福島県いわき市で「食処 くさの根」という食堂を経営する新谷尚美さん

目次

 昨年10月、20数年在籍していた記者職からの人事異動で、通販サイトの食品バイヤーになりました。「東日本大震災復興フェア」を企画して岩手、宮城、福島を回る中で、ある女性に出会いました。今日は彼女から送られてきたメールを紹介させてください。

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「食処 くさの根」に貼り出されていた書
「食処 くさの根」に貼り出されていた書

福島県産品の商談会にて


 福島県いわき市で「食処 くさの根」という食堂を経営する新谷尚美さん。初めてお目にかかったのは、昨年11月に福島県郡山市で開かれた福島県産品の商談会でした。

 その1カ月ほど前から、朝日新聞社が運営する通販サービス「朝日新聞SHOP」で食品バイヤーとして働いていた私は、売り上げの一部を寄付する東日本大震災復興フェアの商品探しのために商談会を訪れました。

 そこで試食したのが「うにとほっき貝の炊き込みご飯の素」。一口、二口と食べると、ほっき貝とウニのうまみとほのかな磯の香りが口の中に広がりました。

 「試食じゃなくて、ご飯茶碗に大盛りにして食べたい。これは売れる、いや、絶対売りたい」と思いました。

「うにとほっき貝の炊き込みご飯の素」で炊いたご飯
「うにとほっき貝の炊き込みご飯の素」で炊いたご飯


 しばらくして新谷さんにメールを送り、「いわき市のお店にもうかがいますが、簡単に、炊き込みご飯の素ができた経緯を教えてください」と尋ねました。

 すると数日後、新谷さんから「少し長文になりますが」と、こんな返信メールが届きました。

新谷さんからの手紙

 ほっき飯の素に至るまでの経緯を、少し長文になりますがお付き合いください。

 私の実家は兵庫県です。丹波篠山の山間地で育ちました。

 21歳の時ご縁がありまして、ここ福島県に来ました。

 50歳までに子育てに追われ、その後やっと自分の好きなことができる時間が持てるようになり、以前から好きだった東南アジアの輸入雑貨を扱う店「くさの根」を開店しました。

 町づくりのメンバーで立ち上げた物産館の中のテナントとして入居しました。

 漁港のすぐそばで、漁具を入れる網蔵を改装した建物でした。

 漁師さんの出入りが多く、彼らは私の店に取り立ての鮮魚を運んでくれました。

 まだ生きているような鮮魚を丸ごとまな板に乗せて、捌き方を教えてくれました。

 市場に出回らないような小魚の美味しい食べ方を教えてくれました。

 季節ごとに食べたことのない魚を届けてくれました。

 山育ちで、しかもスーパーでしか魚を買ったことのない私は、毎日が新鮮で感動的でした。

 仲買の資格を取得し毎日競りに行きました。

 この魚を皆に食べてもらいたいと奮起し、輸入雑貨の店舗の半分を地魚料理の店にしました。

 海鮮丼、焼き魚、煮魚、ほっき飯定食などを提供しながら10年間物産館の中で営業しました。

 その物産館が「道の駅」に昇格し、「道の駅四倉港」をまちづくりのメンバーと共にオープンしました。

 その1年半年後、これからという時に、東日本大震災によりすべて流出。そして、放射能による汚染。

 しかし、土地と空気と食材を愛する気持ちには全く揺るぎがなく、一時兵庫県に避難しましたが、震災の3月末には福島に戻り移動販売の保冷車を購入し、移動販売で汚染のない魚を仕入れて販売しながら営業しました。

 その年の10月に空き店舗を借り、くさの根の再開、現在に至っています。

 魚は汚染で水揚げはありませんでしたが、原発の作業員の方往来が多く、食堂として2015年まで順調な売り上げも推移してきました。

 こんな景気はいつまでも続くことはありません。

 2016年夏ごろから原発の作業員の方の来客は目に見えて少なくなりました。

 食堂の利用者も少なくなり、忙しさのさなかに雇用した20名を超える社員さんの維持も難しくなってきました。

 将来、安定した売り上げを上げるために、私の原点である地産地消の仕事をしようとまだ水揚げされない常磐沖の魚の出漁を待って魚の加工場を建てました。

 福島の魚の加工品を全国にアピールするために、郷土食のさんまのポーポー揚げ、みりん干し、白身魚の練り物などを製造販売しました。

 店内では売れる商品も外販では大変難しいものです。思うように売り上げは伸びていきません。加工場の借金も苦しい現状です。

 2017年から試験操業が始まり少しずつ魚の水揚げも始まりました。

 ほっき貝も震災前の水揚げはありませんが、週に1回水揚げされます。

 ほっき飯は震災前からの人気食でした。道の駅に入居していた時は、県外のお客様の約半分近くがほっき飯定食を注文されました。

 ほっき貝の水揚げが始まりようやくほっき飯定食を再開し、レトルトの開発を手がけました。

 食堂でのほっき飯の定食とは違い、レトルトにするのはほっき貝の性質から大変難しく何度も試作を繰り返しながら、やっと満足の行く商品になりました。

 ウニを入れることで磯の風味がアップしました。

 鰹節と昆布でだしを取り、会津の醤油と喜多方の清酒、塩は福島・広野の海から平釜で煮詰めた海水塩を使用しました。

 新谷尚美
原文のまま引用しています
「うにとほっき貝の炊き込みご飯の素」に使われるホッキ貝
「うにとほっき貝の炊き込みご飯の素」に使われるホッキ貝

それでも前を向いて


 そして昨年12月、私は新谷さんの食堂と加工場を訪ねました。

 加工場ではちょうど、ほっき貝をむいて、わたを取り出しているところ。海沿いの加工場ですが、高い防潮堤ができて、海は見えません。

 「前は海が目の前だったんですけど、震災で防潮堤ができたんですよ」と新谷さん。

 ほっき貝めしはいわきの郷土食でもあります。「漁師の奥さんに『おいしいね』と言われたときは一番うれしかった」と言います。

 海のない丹波篠山から、太平洋に面したいわき市へ。津波と原発事故に翻弄されながらも、前を向いている新谷さんといわきの海のつきあいは、これからも続きます。

食堂でも「ほっき飯定食」を提供しています
食堂でも「ほっき飯定食」を提供しています

食品バイヤーとして


 冒頭にも書きましたが、食担当の記者から通販サイトの食品バイヤーに、まさかの異動。「新聞社のできる通販って何だろう」と、いろいろ考えました。

 新聞社の一番の得意分野というか、期待されていることは、社会問題を掘り起こして、紙面やデジタルでみなさんにお伝えすることなんだと思います。

 そんな思いから、「東日本大震災復興フェア おいしい支援は続くよ。いつまでも」を企画しました。

「東日本大震災復興フェア おいしい支援は続くよ。いつまでも」のページ
「東日本大震災復興フェア おいしい支援は続くよ。いつまでも」のページ


 今回販売している食品のメーカーさんは、全部回りました。

 メインの仕事はもちろん、契約に関するお話です。でも、取り扱っている食品が誕生したきっかけや苦労をうかがい、白衣を着て食品工場も見せてもらいました。

 そこから見えてきたのは、新谷さんのように「食べ物の作り手の知恵と誇り」でした。

 食べ物は「おいしい」、そして「安全」が第一です。でも、そこにストーリーがあると、より訴求力は高まります。

 各商品ページを見ていただくとおわかりいただけると思いますが、生産者のみなさんの話を中心にした記事をつけました。

 心がけたのは「売らんかな」の記事ではなく、新聞記者時代のように淡々と事実を書くことでした。

 読んでいただいて、共感や支援の気持ちをもっていただき、お買い上げいただければいいな、と思ったからです。

 東日本大震災の後も大災害が頻発し、様々な募金活動も行われています。被災地の復興には、税金を投入してインフラ整備も行われます。

 それとは別の方法が、今回の「復興フェア」です。

 被災地のおいしい物を買って食べていただくことで、食べ物の作り手さんが潤います。

 そして、売り上げの一部を岩手、宮城、福島3県の、震災で親をなくしたお子さんたちの進学支援のために寄付します。

 だから、「おいしい支援」と名付けました。おいしい物はまた食べたくなるから、「おいしい支援は続くよ。いつまでも」としました。

 どうぞ、フェアのページをごらんになってください。そこにあるのは、食品や盛り付けの写真、生産工場の写真、そして私が書いた文章しかありません。香りもしませんし、味もわかりません。

 でも、そこから「おいしそう。買ってみようか」と思っていただければ、こんなにうれしいことはありません。

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