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「僕はブタと一緒」壮絶な虐待描いた映画の問い 生還までの道のり
漫画家の歌川たいじさん(52)は、実の母親から虐待を受けて育ちました。公開中の映画「母さんがどんなに僕を嫌いでも」では自らの体験が描かれています。自分に自信が持てず、友達もできずにもがいた日々を経て、「今は幸せです」という歌川さん。どのようにして、いまの心境にたどりついたのか。壮絶な虐待の日々と、「死んでも失いたくない友達」との出会い。そして母の死について語ってもらいました。(聞き手 朝日新聞記者・山本奈朱香)
幼い頃の母の記憶ですか? 「きれい」って、ずっと思っていました。周りから人格者だと思われていたので、3~4歳の頃から「人格者の息子」として努力しなければ、という気持ちもあった。でも僕は落ち着きがなくて、「あんなに良いお母さんなのに」って言われてた。母もそれでイライラしたんじゃないかな。後で叔母から聞いたところでは、母も祖母から殴られて育ったことを知りました。わりと壮絶だったようです。
母から布団たたきでたたかれると、ハート形のあざができるんです。父が経営していた工場で深夜に縛り付けられたり、階段の上から突き落とされたり。胸元や腕には包丁の傷痕がまだ残っています。
母はカリスマ性があって取り巻きがいた。その人たちが僕に食べ物を持ってきてくれるんです。断れずに食べていたので、小学2年ぐらいで体重が50キロ近くありました。やせようと思ってごはんを減らそうとすると、母が切れる。子どもなりに太っている事情があったけど、周囲の理解はありませんでした。
学校でも家庭でも「ブタ」と言われました。思春期になると、言葉が武器になることが分かる。言い返せるよう、人に会うとまず相手の欠点を探すようになりました。
17歳で家出をして食肉工場で働きだしたのですが、「僕はブタと一緒。柵の中で死ぬのを待っていればいい」と思っていた。虐待もDVも、自己イメージをたたきつぶして、自分がいかに最低なのか、というのを洗脳する行為なのだと思います。
でも、父の工場で働いていた女性が幼い頃から僕の面倒を見てくれたんです。「ばあちゃん」と呼んでいました。食肉工場で働いていた頃、ばあちゃんが末期がんだと知って駆けつけました。励まそうとしたんだけど、「ブタがこんなこと言ってもしょうがなくない?」というような自虐的な言葉しか出てこない。
そしたら、ばあちゃんが「『ぼくはブタじゃない』って言って」と言うんです。その一言が言えなくて。でも、ばあちゃんのリクエストなので、ぼろ泣きしながら、なんとか言いました。
なんで言えなかったんだろうと考えました。自分がブタじゃなくなったら、自分の土台みたいなものが崩れてしまうから怖かった。でも、本当に叫びたい言葉は「ブタじゃない」だったんです。ばあちゃんは、見抜いてくれていたんだと思います。
その後は、どう立て直していくかを考えるようになりました。友達を作りたいと思ったのですが、周りの人たちはキラキラしてて、まぶしくて近寄れないんですよ。
話しかけてみてもアラを見つける癖があるから、ひどいことを言ってドン引きされて、の繰り返し。何度もノックアウトされて撃沈して。絶望して、あまりにつらくて家にもいられず、新宿の街をずっと歩き続けたこともある。
18歳で、その後友達になる「キミツ」に出会いました。「僕はこんな風に育ったから、感じの良い青年にはなれないし、人から愛されない」と話すと、「本当のうたちゃんはそうじゃないでしょ」と言われたんです。考えてみたら、もっと奥には、人間が大好きな自分がいた。
でも、それまでは傷にしがみついて生きていた。「痛い」と思うことで生きていることを実感するというか……。だから、傷がなくなると困るわけです。薄紙が1枚1枚はがれるように、何度も揺り戻しを経験しつつ、少しずつ変わっていきました。
会社の同僚だった「かなちゃん」は「うちの子になりなよ」と言ってくれました。かなちゃんの恋人の「大将」は、僕が「欠陥品のように感じる自分は幸せになれる気がしない」と言うと、「欠陥も含めて人間は完璧なんだ」と言ってくれた。3人が、死んでも失いたくない友達になり、僕にとっての「家族」になりました。
母とは決別したつもりでいたけれど、母親が亡くなる前、病気や借金で大変になった時に再び頻繁に会うようになりました。母に認めてもらいたかったからではなく、僕には、自分を認めてくれる別の「家族」ができたから、再び母に向き合えたのだと思う。
母親にはその後も振り回されっぱなしで、「何やってるんだろう」とは何回も思いましたが。でも、人生はくるくる変わるから、「これもいつか終わる」と思っていたんです。
今は夫婦同然に暮らす同性のパートナーもいます。漫画は、いまが幸せだから描けた。ばあちゃんや友達が、僕だけでなく母も救ってくれたことを伝えたかったんです。
よく、「自分を信じろ」と言いますよね。でも、僕のような境遇で育った人は「自分の何を信じたらいいの?」という感じだと思う。でも、いつか信じたいという希望を持つことはできる。希望があるから笑顔でいよう、とか、日常のちょっとしたことが変わっていくと思うんです。
僕が、たまたま優しい人に囲まれていたと言われることもある。でも、僕も「こんなことをしたら友達が離れてしまうかも」と踏みとどまった。それと、大将たちの良いところしか見なかったんです。人間、100%良い人なんていない。でも良いところばかり見ていたら、向こうも僕の良いところを見てくれる。だから、僕もグッジョブだったと思うんです。
歌川さんの3人の友人にも話を聞きました。
キミツ「初めてうたちゃんに会った時の印象は、『怖い』。『自分を見て』というのが強いけど、引っ込み思案。バランスが悪いというか。映画を見て、改めて、人付き合いが大変だっただろうな、と思いましたね。僕にとっても、闇の部分をさらけ出せる相手だったんだけど(笑)」
大将 「お母さんの話は笑い話として話してくれていたから、そこまでつらい思いをしていたというのは感じていなかった」
――かなさんが「うちの子になりなよ」と言ったのはなぜですか?
かな「何げなく言ったから覚えてないけど、本当にそう思ったんです。うちの実家にも何度も遊びに来てくれてたし。いまもお正月はだいたいうちの実家に来るもんね」
歌川「うん、来年も行きます。当時は『家庭』に憧れていたけど、かなちゃんの実家は絵に描いたような幸せな家庭に見えた。お邪魔する時はディズニーランドに行くような気持ちだった」
かな「私たちにとっても、うたちゃんはかけがえのない存在。私が(大将と結婚して)次女を出産した時には、うたちゃんにも立ち会ってもらおうと思ったんだけど、間に合わなかった。娘たちもうたちゃんが大好きなので、19歳の次女は『私が産む時にはうたちゃんを呼ぶ』って言うんです。子どもって、逃げる場所がない。だから、うたちゃんに『ばあちゃん』がいてくれて本当に良かった」
歌川「3人とは、一緒にごはんを食べて『うまいね』と言って、という、なんでもないような時間の積み重ねがある。それと、違いをおもしろがってくれた。(ゲイの人が集まる)新宿二丁目を案内したこともあったよね。そういうことを通して、それまで『闇』の場所だと思っていたところが闇じゃなくなってくる、というような感覚があったんだと思います」
取材は、「大将」と「かなちゃん」のお宅にお邪魔して行いました。1時間ほどお話を伺った頃に「かなちゃん」が「じゃ、そろそろごはんにする? 食べていってね」と声をかけてくださり、その後はお食事をごちそうになりながらお話を伺いました。
ご自宅のテーブルは「人をたくさん呼べるように」と、大きな丸テーブル。みんなで囲む食卓はあたたかく、歌川さんの「幸せ」の原点を見せていただいた気持ちになりました。
ちなみに「かなちゃん」は娘さんたちが幼い頃、娘さんのお友達にも「家出する時はうちにおいでよ」と言っていたそうです。「子どもには行き場がないから。家出したら危ないから、うちに来てくれたほうが私もうれしい」という懐の深さが、心に残りました。
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