感動
琵琶湖であった「もう一つの鳥人間」 大会常連校が単独で挑んだ夏
「ナントカと煙は高いところに上る」と見込まれてか、入社以来27年、不思議と空を飛ぶ取材が舞い込んでくる。それも飛行機やヘリコプターではない。大分県の久住や岐阜県の木曽川ではグライダーに乗り、前任地の佐賀では熱気球の世界にどっぷりはまった。駐在4年目になる滋賀県彦根市は、毎夏人力飛行機が琵琶湖へ向かって飛ぶ「鳥人間コンテスト」がある。今年は台風で会期が短縮されたが、終わって1カ月もした8月末、「大会で飛べなかったチームが、自力で飛ぼうとしている」という話が舞い込んできた。(朝日新聞彦根支局長・大野宏)
朝焼けに輝く機鳥は、湖上を舞うことができるか。 pic.twitter.com/kpzFtGZN1b
— 大阪府立大学 堺・風車の会 (@Wind_Mill_Club) 2018年8月26日
今春、堺市中区の大阪府立大中百舌鳥キャンパス。部の工房にいた堺・風車の会代表(当時)の尾崎翔太さん(21)は、鳥人間コンテストの書類選考結果が届いた、との他チームのツイートに気づき、作業の手を止めて近くの下宿に向かった。
届いていたのは、小さな封筒。
「とりあえず部屋に入って、30分ゲームをしました」。合格ならば手続き書類の入った大きな封筒が届く。中身は見ずともわかった。「みんなにどう話していいかわかんなくて」
パイロットの小島拓朗さん(21)は、工房で尾崎さんを待っていた。「戻りが明らかに遅い」と思っていたところ、ようやく気を取り直した尾崎さんから落選を知らせるLINEが届いた。
胴体担当の黄瀬陸哉さん(21)は「ずーっと出てきたので、今年も出られると思っていました」。鳥人間コンテストへの参加を目的に府立大の学生を中心に結成された部は、この20年間、ほぼ毎年人力飛行機部門に参加してきた。過去に何度も優勝経験があり、昨年も6位に入っている。機体の完成を間近にして、まさかの落選だった。
その日のうちに3回生以下の現役部員が工房に集まった。主催のテレビ局に参加をかけあいつつ、自分たちの力で独自の飛行に挑む道も探ると決めた。主催者に落選理由を尋ねても納得の行く答えは返ってこなかった。チームは自力で飛行環境を整え、国際航空連盟(FAI)規則に従って飛行記録を狙う「記録飛行」への挑戦を決めた。
機体の完成度を高め、来年まで待つ手もあった。どうして困難な道を選んだのか。
「ぼくらのワガママですね。なんかよくわかんないけど、飛ばしてえって」。尾崎さんは笑い飛ばす。もともと飛行機が大好きで、近大和歌山高では科学部を創部。飲料水の缶サイズの小型の模擬人工衛星「缶サット」の打ち上げにも成功した。「このままで終わるのは、悔しい」
「出られないからってあきらめて終わるチームと差をつけたかった」。そう語るのは黄瀬さんだ。膳所高(滋賀)では水泳部。地元で毎年行われる鳥人間コンテストはもちろん知っていて、メカも好き。大学もコンテストの常連校を狙って府立大へ来た。「出られなかったチームが、同じ琵琶湖でこんだけ飛んだぞ、と言いたかったんです」
出たい理由が最も切実だったのは小島さんかもしれない。奈良学園高ではバスケット部。大学に入って「なんか楽しそう」とのぞいた部でテストフライトに駆り出された。頭上をすごい速さで通り過ぎた飛行機を見て「あそこからの景色が見たい」とパイロットを志望。この半年間、毎日2~3時間エアロバイクをこぎ、172センチの体を56キロまで絞った。「体の限界まで飛んで、力尽きて琵琶湖に沈んで終わりたかった」
鳥人間コンテスト2017が,8/23 19時より放送されました。
— 大阪府立大学 堺・風車の会 (@Wind_Mill_Club) 2017年8月23日
ご覧いただけましたか?
私達はDist部門に出場し,結果は6位(13.7km)でした。1年間,応援ありがとうございました!今後の堺・風車の会も,よろしくお願いいたします。 pic.twitter.com/sNAimb7QqT
腹は固めた。が、何から手を付けていいかわからない。2009年に琵琶湖で記録飛行をした東北大のOBを神戸市に訪ねた。湖水に落ちた機体を回収する船やダイバー、記録申請に必要な公式立会人の手配――。教わることは山ほどあった。「どういう心意気で臨まなきゃいけませんか?」との問いへの答えは「人が2人は倒れるよ。それでも頑張らんとあかん」。
「やばそうだな」とは思った尾崎さんだが、決心が変わることはなかった。東北大OBが「2度とやりたくない」と笑った意味を思い知るのは、もう少し先だ。
機体は5月にロールアウト(公開)したが、本当の難関はここからだった。
飛ぶ場所と日時を決めないと、何も手配できない。駿河湾(静岡県)や、東北大が使った琵琶湖南部も候補にしたが、琵琶湖に正対して滑走できる彦根港に決めた。
琵琶湖は1級河川淀川水系の一部で、港湾地域でもある。河川法と港湾法に基づく使用申請が必要だ。それも滋賀県と彦根市と両方に。コンテストなら主催者が全部してくれる手続きに奔走していた尾崎さんが、とうとうパンクした。
「朝起きても、家から出るのが怖くなって。行かなきゃいけないと分かってるのに、2週間くらい引きこもって寝ていました」
幸い、一緒に交渉に当たった先輩が、尾崎さんの分も仕事を引き受けてくれた。大学院生や学外のメンバーも運営に関わる伝統が生きた。それでも実施までは綱渡り。「本番1週間前まで『ほんまにできるんか』『できそうにないなあ』って話してました」と小島さんは振り返る。
8月26、27日のいずれかで狙うはずのフライトは、台風の接近のため、26日は中止に。使用期限の27日が、最初で最後のチャンスとなった。
8月27日午前2時半。真っ暗な彦根港の駐車場で機体の組み立てが始まった。機体には毎年、大学がある堺市ゆかりの名をつける。今年は市の花木ツツジの英名「Azalea」だ。
ホテルで待機していた小島さんが、ポジション合わせのため到着した。府立大は長年、パイロットが仰向けに寝て足元のペダルをこぐ「リカンベント」という自転車の後方にプロペラを置く配置を採用している。プロペラの後ろに構造物がないので乱流が発生しにくい。その分パイロットの前方視界は悪く、乗り降りは一苦労。機体はお尻の下から左右に突きだした操縦桿で操る。
重心が決まって小島さんは機から降り、サイクルトレーナーにまたがってアップを始めた。カーボン繊維を樹脂で固めた機体は全長約7メートル、尾翼の高さ約3メートル。重量は約40キロにしかならない。数人が手で押して滑走路へと運び、発泡スチロールや断熱材で作った翼をパーツごとに組み付けて、午前5時過ぎの夜明けには約32メートルの翼が広がった。「翼長はYS-11とほぼ同じです」。公式立会人を務める日本学生航空連盟の中村暢宏・妻沼訓練所長が、国産初の旅客機を引き合いに出して教えてくれた。
今回、堺・風車の会が挑戦したのは、約10キロの三角形のコースを周回する距離記録。閉じたルートを回る「閉回路コース」も同時に挑戦した。離陸して防波堤を越えたら左に旋回し、湖上に配置した三つのブイの外側、1辺約3キロの三角形を時計回りに回る。
直線コースでの距離飛行は既に日本記録が存在しており、琵琶湖では更新するコースを設定できない。三角形コースは全方位からの風に対応しなければならないが、中村さんによると、日本航空協会(JAA)にFAI規則を満たした日本記録として公認された前例はなく、1周して審査を通れば日本記録となる。
午前5時過ぎ、夜が明けた。小島さんが乗り込み、発泡スチロールのハッチが閉められた。湖上には着水後に回収するダイバーや伴走する船が展開し、約30人のスタッフが全員持ち場に着いた。しかし、風は横風から追い風。安全に離陸するには機体に正対する湖からの風が欲しい。
待機が長くなれば、コックピットの暑さは増し、エンジンを兼ねる小島さんが消耗してしまう。次第に強さを増す朝の日差しの中、観光船乗り場上の風向計を皆がみつめていた。
午前8時15分。待ちに待った琵琶湖からの風が吹き始めた。「いきます」と小島さんが声をかけ、直径3メートルのプロペラが回り始める。滑走を始めると、垂れ下がっていた翼端が舞い上がる鳥の翼のように上がっていく。「前日のテストよりスピードのノリがよく、これは余裕でいけると思いました」(小島さん)。
右翼の脇を走っていた尾崎さんは、ふわりと浮き上がったのを確認して、湖上のスタッフに「浮いた!」と無線で伝えた。尾翼近くを走っていた黄瀬さんも「早めに浮いたんで、いけそうやな」と感じた。歓声を背に、飛行の定義となる高度2メートルをあっさりクリア。防波堤を越えて湖上に出た。
ただ、そのとき。小島さんの尻の下で「バキッ」と音がして、操縦桿(かん)がフレームからはがれた。左へ旋回して周回コースをめざすはずの機体は、勝手に右へとそれていく。「どうしようもなかった」と小島さん。無線のボタンを押しながら、周囲を走っていたスタッフに聞こえるよう「操縦桿が外れた!」と怒鳴った声は、尾崎さんや黄瀬さんの耳にも届いた。「なんでや……」と誰かがうめいた。
スタッフの船を越えるまではペダルをこぎ続けた小島さんは、安全に着水させるため足を止めた。「体力もあるし、こいだらまだまだ飛べる機体を、自分の意志で、降ろさなあかんのがつらかった。これで終わりか、と」。着水の瞬間を、黄瀬さんは正視できずに目をそらした。離陸から、1分足らずで飛行は終わった。
「頭の中が真っ白で、何からしていいのかわかんなくなった」。尾崎さんはとりあえず着水した機体を見に動いた。院生の先輩の指図に従い、機体を湖岸に引き上げる段になって「ほんまに落ちたんや」と実感がわいてきたという。
黄瀬さんは胴体の責任者として解体を指揮した。「僕がいないと進まない。気持ちを静めました」。ダイバーとともに無事に岸に戻った小島さんは、記者の顔を見て「すみません」と力の無い声を出した。
それから半月――。堺市の工房を訪ねた。テストでは不具合を起こさなかった操縦桿が外れた原因は、はっきりとはわからない。
「フレームとの接着面が弱かった。ただ、パイロットがどれくらい力をかけたのかがわからない」と黄瀬さん。使える部分は来年の機体に流用し、自身も手伝うことになりそうだ。「今年はいろんな箇所を前年から変え、ぎりぎりでやってたんで、来年は地に足をつけてしっかり運用したい」
「あんまり終わった感覚が無い」と小島さん。少し体重が増えたが、体は引き締まったままだ。「またトレーニングして、と言われたら、ハイってやっちゃいそう」。ただ、新しいパイロットは既に決まり、取材する脇で黙々とサイクルトレーナーを回していた。「まだ若干飛びたい気持ちはあるんですけど、それは後輩も同じですしね」
まもなく次代に部を引き継ぐ3人に、「それでもやってよかったと思う?」と尋ねた。
「前例がなく、全部自分たちで考えなきゃならなくて大変だった。でも、自分らで作って自分らで飛ばせた。自分でもようやったと心から思います」(尾崎さん)
「部品のトラブルに責任は感じてます。でも、離陸まで持っていけたのは大きい」(黄瀬さん)
「ずっと飛びたいという夢を、みんなでそういう場を作ってかなえてもらえた。満足してます」(小島さん)
製品を買って飛ばすグライダーや熱気球と、人力飛行機の決定的な違いは「作って飛ばせた時点で半分勝ち」だと教わった。工房では、次の飛行機の製作が始まっている。
※「堺・風車の会」の優勝回数について、表現を修正しました。
1/10枚