話題
さよなら吉野家1号店 築地最後の店長「おいしい牛丼、豊洲でも」
1926(大正15)年から、築地の魚河岸で働く人たちの胃袋を満たしてきた吉野家。1959(昭和34)年から現在の場所で営業する「吉野家築地一号店」が市場の豊洲移転とともに閉店し、築地での92年の歴史に幕を下ろします。BSE(牛海綿状脳症)問題で米国からの牛肉の輸入がストップした時も、国産牛を仕入れて牛丼の灯を守り続けた1号店。緑色の丼や壁にある箸置きなど、あとわずかで見ることができない「聖地」の風景を、朝日新聞の竹谷俊之カメラマンが360度カメラで撮影。立ち会った原田和樹店長(30)や吉野家の社員たちが思い出を語りました。
竹谷カメラマンは、豊洲への移転の方向性が進んだ2014年から、市場内の仲卸や競りの様子などを撮り続けています。10月6日の営業終了とともに店を閉める1号店についても、「年季の入ったカウンターや働く店員を記録に残したかった」。吉野家側と調整の結果、営業時間後に吉野家の社員を客と見立てて撮影することになりました。
コの字型のカウンターに15席が並ぶ手狭な店内。「アタマの大盛一丁!」と厨房へ注文を伝える原田店長の声が響き、あうんの呼吸でメニューが提供されていきます。伝票ではなく器を見て会計をするため、1号店だけアタマの大盛は通常と違う緑色の丼。壁に据え付けられた箸置きは、席が空くのを待てず、立って食べる人がいた昭和の名残です。どちらも豊洲市場の新店舗では引き継がれず、閉店とともに、その役目を終えます。
1号店では常連客の好みに応じて、様々な「裏メニュー」も生まれました。例えば「とろだく」は、牛肉の脂身多め。「肉した」は、肉の上にご飯を乗せるスタイル。「肉したは、ご飯にたれがかかるのが嫌だという要望から生まれたと聞いています。こうした数々の要望に応えられるのは、1号店だけです」(吉野家広報)。
18歳から吉野家で働き始めた原田店長。1号店の店長は、2016年3月に任されました。「多くのお客さんに愛された歴史ある店。不安もありましたが、すごい光栄でした」
早朝の1分1秒を争う市場関係者を相手にする1号店。「顔を見たら注文が分かる」ぐらい、常連客の好みは歴代の店長から代々引き継がれています。原田店長も約200人の「いつもの注文」を覚えているそうです。
「『店長がいるから』と足を運んでくれるお客さんがいる。一年の最後に必ず、常連さんがあいさつに来てくれる。この2年半はお客さんとの関係が本当に濃かった」と振り返る原田店長。「1号店の閉店は、一つの歴史が止まってしまう。やっぱりさみしい」
撮影に参加した吉野家の社員たちにとっても、1号店は思い入れのある場所です。
「物心ついた時から吉野家ファン」を自認する藤野敦子さん(34)は、「憧れの場所でした」。大学進学のため仙台から上京した時に埼玉の店舗でアルバイトを始め、卒業後も都内の店舗で継続。2016年に正社員になり、研修で初めて1号店を訪れました。
「おいしいたれに絡まった牛肉は、『これが吉野家だ』という丼に仕上がっているし、スピードに対応するため、お客さんのことを覚えておかなければならない緊張感もある。まさに『吉野家の魂』を学びました」
今春まで約20年間、東海地方の店舗で働いていた弓良(ゆみら)知さん(40)は、「地方のスタッフにとっても1号店は、東京に行く機会があれば一度は訪れる『聖地』。自分にとっては、吉野家で働き始めた頃の原風景を思い出すんです」。事業推進本部の中山智博さん(43)は「本当にさみしいが、一つの転換点。この店が築いてきたお客さんを大切にする心はしっかりと受け継ぎ、これからも最高のコミュニケーションを目指したい」と新たに誓いました。
吉野家築地一号店は、築地市場が営業を終了する10月6日午後1時に閉店します。その後は他の施設と同様、解体される予定です。原田店長も新店舗では店長を務めません。
それでも、牛丼・牛皿に絞ったメインや裏メニューは新店舗でも引き継がれます。「僕は店を支援する側に回りますが、1号店でこだわってきたおいしい牛丼を豊洲でも提供できるよう、自分にできることをしていきたい」。取材に力強く、そう語りました。
1/13枚