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開会式のボール投下、甲子園より古い歴史 上空から狙う「美しさ」
夏の甲子園である全国高校野球選手権大会、8月5日の開会式では、甲子園球場の上空からヘリコプターでボールを投下する恒例のセレモニーが行われます。実は甲子園よりも古いというその歴史。そもそもいつから始まったのか。そして、100回となる記念大会の今年は、いったいどんな人が「投下」するのでしょうか。(朝日新聞航空部・河原一郎)
7月初め、京都府八幡市の野球場であったボール投下訓練に同行しました。担当するのは、朝日新聞の航空部員たちです。
「投下1分前」。地上からの無線連絡で、ヘリ「あかつき」が上空に進入します。高度150メートル、時速70キロ。機体横のスライドドアを開けると、ものすごい風圧です。
上野博機長(48)が「用意、投下!」と合図を出した瞬間、飯野祐平整備士(29)が両手で持っていた朝日新聞社旗を思い切り投げました。旗はパッと開き、ボールをぶら下げた状態でひらひらと落ちていきました。
甲子園上空では、機長はライトからレフト方向に吹く「浜風」を読んでタイミングをはかります。旗のたたみ方と投げ方で美しく落下させる整備士との連係プレーといえます。
野球場へのボール投下の始まりは甲子園ができる前年の1923(大正12)年にさかのぼります。飛行機そのものがまだ珍しい時代です。
鳴尾球場(兵庫県西宮市)で開かれた第9回大会に朝日新聞社の飛行機が飛来し、社旗とパラシュート付きのボールを投下。ところが風に流されてしまい、球場外で拾った人が届けてくれたと記録に残っています。
大会会場は翌年、新築された甲子園に移ります。ボールが入ったくす玉、優勝校を祝う花束など色々なものが投下されました。終戦後の一時期は米軍機がボール投下をしました。
今年の開会式では松井秀喜さんが始球式を務めます。球場内の甲子園歴史館では、一番目立つ場所に松井さんの星稜高時代の黄色いユニホームが展示されています。松井さんは始球式を務めるにあたり、「(甲子園は)私の少年時代のあこがれ」とコメントしています。
ヤンキースで活躍した松井さんに憧れて野球を始めた球児は多いでしょう。今年のボール投下を担当する飯野整備士もその一人。例年はベテラン航空部員が担当していますが、今年は入社2年目の飯野整備士が抜擢(ばってき)されました。普段は取材ヘリや飛行機の整備をしています。
福岡県立直方高校では野球漬けの日々を送りました。入学前年に野球部は夏の福岡大会で準々決勝に進んだ強豪。入部すると毎日10キロ以上の走り込みを課されます。真夏でも水を自由に飲むことはできません。ぬらしたタオルをポケットに隠し、口にあてて渇きをしのいだといいます。
強肩で外野手と捕手を兼任。ところが連日の遠投による疲労で右肩を痛めます。練習の休みは月1~2日。けがで休むと言い出せませんでした。我慢しているうち、1年生の終わりには痛みで投げられなくなってしまいました。病院をいくつも回った末、大学病院で肩の軟骨がつぶれて脱臼していることが判明しました。
「もう野球は続けられない」と、2年夏に退部届を提出しますが、周囲に慰留されて治療に専念します。しかし簡単に治るけがではないため、満田拓也の漫画「MAJOR」の主人公が左投げに転向したのをヒントに、左投げにも取り組みました。
箸やペンを持つのも左手にかえ、球速は100キロ超に。しかし短い時間では実戦レベルには届きません。3年夏、一度も出場機会がないまま、県大会2回戦で敗退しました。
就職して大阪勤務になると、元球児の友人を誘って甲子園球場を見に行きました。朝日新聞には昨春に入社。野球に思い入れのある飯野整備士に100回大会のボール投下をやらせたいと、職場の先輩から声が上がりました。
飯野整備士も本番に向けて気持ちを高めています。「甲子園は球児たちの夢の舞台です。僕のように甲子園に出られなかった人たちのために、思いや気持ちを代表するつもりでストライクを投げ込みます」
華やかに大会を盛り上げるボール投下は、裏方的な仕事であるためか、これまで注目されることは多くなかったようです。朝日新聞の記者になると必ず高校野球の取材をしますが、記者歴十数年の筆者はボール投下の取材は初めて。甲子園の歴史の一部であることを知りました。
飯野整備士は本番では二塁付近を狙って投下します。グラウンド内に落ちれば合格、二塁の近くに落ちればストライクということになります。8月5日朝の開会式にご注目ください。
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