お金と仕事
死の淵見たから、がむしゃらに 逆境も乗り越えた井村屋副会長の半生
「あずきバー」で知られる井村屋グループ(津市)の中島伸子・副会長(65)はアルバイトとして入社し、3人の子どもを育てながら女性社員のパイオニアとして活躍してきました。その原点は、学生の時に遭遇した列車火災事故です。「生きていくことが亡くなった人への恩返しになる」。父親からのメッセージを胸に、家庭との両立や管理職になってからの逆境も乗り越えてきました。(聞き手・朝日新聞津総局記者、小林裕子)
――キャリアはどんなスタートだったのですか。
23歳で福井営業所にアルバイトとして入ったのが始まりです。学生で20歳になる直前、北陸トンネル列車火災事故に遭遇しました。
目の前に3人の幼子を連れたお母さんが座っていましたが、亡くなったことを入院中に知りました。なぜ自分は生き残ったのか――。
何も手につかない日々が続いている時、父から手紙が届きました。「生きていくことが亡くなった人への恩返しになる」と。置かれた場所で一生懸命にやれば社会に役立てる。そう気づきました。結婚後、アルバイトを募集していた自宅近くの井村屋で働き始めました。
――最初はどんな仕事だったのですか。
経理事務の担当でしたが、4トントラックで配達もしました。配達先の小売店で「お年寄りからアイスクリームのカップのふたがはがしにくいと言われる」と聞きました。持つところを大きくして強度を高めてもらうよう本社に提案すると採用されました。
アルバイトの意見も取りあげてもらえるいい会社だなと感じて、25歳で登用試験を受けて正社員になりました。働いて、社会と交わっていたい思いが強くありました。
――女性社員のトップランナーとして走り続けてこられました。苦労もあったのでは。
30歳過ぎで営業に出ることになりました。「何で女のセールスマンを寄越すのか。帰ってくれ」と言われたこともありました。翌朝6時に行って出社を待っていると「また来たんか」と。説教をされましたが、商談もさせてくれました。「勉強中です」と謙虚であれば、受け入れてもらえることを学びました。
――家庭との両立で思い出深い出来事は。
働き続ける上で一つだけ主人との約束がありました。子どものお弁当を必ず作ることです。北陸支店勤務の時に寝坊して、おかずが生野菜にマヨネーズをかけただけになったことがありました。
高校生の息子に「今日が一番豪華な弁当やった。同情した友達が弁当のふたにエビフライやハンバーグを載せてくれた」と言われて切なくなりましたが、小学生の娘は「約束したことにこだわらなくていいよ。生き生きと働いているお母さんが好きだから」って。主人も笑って聞いていました。家族の支えに助けられました。
――53歳で女性初の関東支店長に。管理職になってつらかったことは。
部下からの評価が最低だったことがありました。5段階評価でほとんどが1~3。1、2が約3割。死の淵(ふち)を見たときに社会に役立とうと決めたのに、このままでは会社に迷惑がかかると思い、辞表を浅田剛夫社長(当時、現会長)に渡しました。
すると「女性支店長は優しくていい、とでも言ってほしかったのか。そんな暇があったらお客様に答えを出してもらえ」と、叱られました。企業人として仕事に対する厳しさに触れ、やり直そうと決めて営業社員と一緒に毎日、得意先を回りました。
――女性初の副社長に抜擢(ばってき)されました。
お祝いに赤飯を炊くなど小豆を使う日本の食文化を残したいと、毎月1日を「あずきの日」にするアイデアを出し、新キャンペーンを展開しました。生活者の目線を評価してもらえたのかな。浅田会長が「女性だから副社長にしたわけじゃない」と言ってくれたのは変なプレッシャーにならずに救いでした。
性別に関係なく生活者としての感性を高めることや、人への温かさを忘れないことでしょうか。その場その場で素直に、正直にしっかりやることも大切にしてきました。
――これから社会に出る女性に伝えたいことは。
新入社員には「三つの言葉を覚えておけば一生自分を助けてもらえます」と話しています。一つはあいさつ。二つ目はありがとうという感謝の気持ち。そして清潔。自分らしく社会で生きていく第一歩は、相手を認めることだと思います。相手の良さ、素晴らしさを認めないと自分も認めてもらえませんから。
〈なかじま・のぶこ〉 1952年、新潟県生まれ。78年に井村屋製菓(現井村屋グループ)に正社員として入社。北陸支店長、東京へ単身赴任して関東支店長、取締役マーケティンググループ長、2011年に本社のある津市へ単身赴任して、井村屋グループの常務取締役などを経て、17年に同社で初の女性副社長に就任。4月1日付で副会長に昇格。趣味は能面作りと水墨画。
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