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メキシコ・熊本地震を体験、驚いた避難の違い「すぐ外に出るなんて」
メキシコの首都メキシコ市を大地震が襲ってから2カ月。日本とメキシコの地震の両方を体験したアメリカ人ジャーナリストのエレン・フリーマンさんが、地震を通じてみえた二つの国の姿について、記事を寄せました。
日本で聞いた地震速報の音を、私はいまもよく覚えています。2度にわたって響く不協和音。「地震です!」という落ち着いた、それでいて急を知らせる女性の声。初めてそれを聞いたとき、私は地震自体よりもあの音に驚きました。
宮崎県高千穂町の高校で英語を教えて過ごした3年間で、私は何度もあの音を聞くことになりました。昨年4月の熊本地震の当日は、ちょうど屋久島に旅行に行っていましたが、その後の2週間で1000回以上の余震を経験。「地震酔い」とはどういうものなのか、身をもって学びました。
私はいま、メキシコ市に住んでいます。ここもまた、世界で最も進んだ地震速報システムの一つを持つ都市です。
今年9月19日、午後1時15分。マグニチュード7.1の大地震に襲われました。震源があまりに近かったため、サイレンが鳴った時にはすでに地面は揺れ始めていました。ただ、揺れの直後、いつもは大騒ぎの町が一瞬の静寂に包まれたのを覚えています。
九州で経験した地震は、削岩機が空気を切り裂いていくような感覚でした。一方、メキシコの地震は、地球が嵐の中の船のように揺れたのです。酔っ払いの人みたいに、何かにしがみつかずにはいられませんでした。
メキシコ市に住む日本人の友人たちが驚いたと言っていたのは、揺れの直後に多くの人たちが通りにあふれ出たことです。
友人の1人は北海道出身で、メキシコに住んで1年半。彼女は地震のとき家にいましたが、お手伝いさんの女性は「すぐに逃げなきゃ」と言い張りました。14段の階段を駆け下りていく頃には、すでに建物にひびが入り始めていたのです。
多くの人ができるだけ建物から離れようと混乱になり、1人の男性は救急車にひかれて亡くなりました。「地震のとき、日本では絶対に外には逃げない」。日本人の友人たちは全員、口をそろえて言いいました。
公式には、地震への対応はメキシコも日本もアメリカも同じです。机の下に隠れ、揺れが治まるのを待ってから外に出るーー。
ではなぜメキシコ人はすぐ外に逃げるのか? 実は二つの理由があります。
一つ目は、1985年地震の悲劇です。32年前のちょうど同じ9月19日、メキシコ市を大きな地震が襲いました。建物の多くがつぶれ、1万人もの人が亡くなりました。その記憶がいまも、あまりに強烈なのです。
二つ目は、建物の耐震性です。85年地震のあと、厳しい安全性基準が定められました。でも、それが守られていないことを、多くのメキシコ人が知っているんです。2016年の調査では、71%の建物が基準を満たしていませんでした。
地震のあと、自宅に歩いて帰るまでに1時間以上かかりました。カラフルなシーツに包まれたベッド、棚の上で不思議にバランスを保つサッカーボール……。アパートの壁は崩れ落ち、中が丸見えになっていました。
熊本県益城町では、古い民家が崩れた隣で、新しいマンションはビクともしませんでした。ところが、メキシコでは正反対。ピカピカの新しいビルが、コンクリートの塊に変わり果てました。
メキシコ市で一番人気の和食レストラン「MOG Bistro」の長谷川シェフは「こんな地震では、日本で建物は崩れません」と言います。彼が見せてくれたのは、自宅近くの真新しいショッピングプラザの写真。壊れたコンクリート階段の中からは、発泡スチロールが見えていました。
「おおらか」。彼はメキシコ人の楽観的な態度をそう表現します。この国の最も好きなところであると同時に、最も腹立たしいことだといいます。
たとえば日本人が「これはもう古くて危険だ」と言っても、メキシコ人は「大丈夫。まだ使えるよ」と言うわけです。こうした緩い感覚が、今回の地震で被害を拡大させたのも事実なのです。
日本とメキシコのもう一つの大きな違いは「安全かどうか」。日本人は、地震が起きれば社会が不安定になると思うでしょう。でもメキシコは逆です。
メキシコ人は公共機関を信じていません。だから、災害時はお互いを助け合うしかないのです。崩壊したビルには、多くのボランティアが集まりました。
通りには、バケツリレーでがれきを運び出す人の長い列。ヘルメットと蛍光色のベストを着た即席レスキュー隊に、エプロン姿の女性たちがサンドイッチとコーヒーを配って歩き、作業は夜を徹して続きました。「本当にボランティアが多かった」と日本人の友人は口々に言います。
「MOG Bistro」も翌日から、ありったけのお米を使っておにぎりを作り、病院や避難所に届けました。「いつもレストランを支えてくれるメキシコ人への恩返し。それが日本人の文化です」と長谷川シェフ。ガスの代わりに木炭を使ってみそ汁も用意しました。
東日本大震災の直後、東京では多くの人が食料を買い込んで、スーパーの棚が空っぽになりました。メキシコでも同じことが起きるのか?
いえ、なんと店内の棚は商品でいっぱいだったのです。品薄の店があっても、それは人々が水やオムツ、缶詰を買い込んで被災者に提供したからでした。
電気が止まらなかった家は、バルコニーからコードを歩道に垂らして「携帯の充電どうぞ」とメモを貼り付けていました。
メキシコ人の団結力は驚くべきもので、私自身も何かしなければと思わされました。ところが、すぐにはできなかった。地震の直後はショック状態だったんです。
あの日、うちに戻る途中、崩れ落ちたアパートを通りかかりました。人々はがれきの上に登り、素手でコンクリートと格闘しながら「誰か助けを!」と叫んでいました。「中に人がいるんだ!」と。
でも私は疲れ果てていました。夫にも会いたかった。サンダル履きで、何ができるかも分からない。そう自分に言い聞かせて、その場を通り過ぎたのです。
その夜、いても立ってもいられず現場に戻りました。すでに警察に封鎖され、ボランティアであふれかえっていました。
メガホンで誰かが叫びます。「医者はいないか!」「技術者はいないか!」ーー。私は何の特技もない。家にいるよりはましなんじゃないかと思って、ただそこに立ち、涙を流していました。
罪の意識と無力さにさいなまれる日が続きました。そんな時、日本から来たレスキュー隊が通訳を探していると知りました。「すぐ行かなきゃ」と思った矢先、私は「ショベル」も「がれき」も「救急車」も日本語で言えないと気づき、また落胆しました。
そこでふと、「寄付」という言葉が頭に浮かんだのです。熊本地震のとき、私は日本人の友だちと地元の公民館でバイリンガルのヨガ教室をやっていました。その収益を、被災者に寄付したことがあったんです。
「私にはヨガがあるじゃないか」。災害のあとは、体と心のケアが大切です。フェイスブックのページを立ち上げ、ヨガの無料教室を始めました。
反響は大きなものではありませんでした。数人のアメリカ人、スイス人、メキシコ人と日本人が集まり、公園でヨガをしました。
ヨガが誰かの命を救えるわけではないのは分かっています。でも1人の女性は「元気になった」とメッセージをくれたし、ボランティアで救助にあたっていた男性は「ヨガの間、ずっと涙をこらえていた」と明かしてくれました。生活が平穏に戻るまで、このヨガ教室を毎週続けました。
日本からメキシコに移り住んで以来、いろんな違いに気づかされます。そして災害は、違いをより際立たせるだろうと思っていました。でも、地震は私たちみんなに同じように影響するのです。
ふだん、地球は当たり前のように私たちを支えてくれる存在です。でもひとたび地震が起きると、その感覚は一気に崩れ去ります。そんなとき、どんな方法であれ、お互いを支え合うしかないのです。たとえそれが、公園に車座になって、ヨガの「亡きがらのポーズ」で寝そべり、同じ地球を背中に感じるだけのことであったとしても。
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