お金と仕事
ぷよぷよをつくった天才クリエーター仁井谷正充さん、いま何してる?
90年代にはやった「ぷよぷよ」というゲームを知っていますか? テトリスとともに「落ち物パズルゲーム(落ちゲー)」の中で、空前のブームを巻き起こしました。そんな、ぷよぷよをつくった伝説のクリエーターが、いま家賃5万円のアパートで細々と暮らしているらしい。そんな話を聞き、訪ねました。
お金と仕事
90年代にはやった「ぷよぷよ」というゲームを知っていますか? テトリスとともに「落ち物パズルゲーム(落ちゲー)」の中で、空前のブームを巻き起こしました。そんな、ぷよぷよをつくった伝説のクリエーターが、いま家賃5万円のアパートで細々と暮らしているらしい。そんな話を聞き、訪ねました。
ゴールデンウィーク(GW)が終わってしまいました。全国的に好天に恵まれた今年のGW。どこにも出かけずに家に引きこもってゲームざんまいだった人もいるかと思います。
ゲームといえば、90年代に大流行した「ぷよぷよ」というゲームを知っていますか?
画面上部から落ちてくるぷよぷよしたキャラクターを同じ色でまとめ、4匹がくっつくとキャラがはじけて消滅。その消滅の大きさ(連鎖)に応じて対戦相手に邪魔なキャラを降らせ、ゲームオーバーを誘うゲームです。テトリスとともに「落ち物パズルゲーム(落ちゲー)」の中で、空前のブームを巻き起こしました。
そんな、ぷよぷよをつくった伝説のクリエーターが、いま家賃5万円のアパートで細々と暮らしているらしい……。話を聞きに、訪ねました。
ピンポーン。
「はーい」
ぷよぷよのレジェンドこと仁井谷正充さん(67)=千葉県新松戸=は現在、家賃5万円のアパートで一人暮らしをしていました。
「男やもめに○○がわく」ということわざのごとく、お世辞にもきれいとはいえない2DK。足の踏み場に気をつけながら、台所とベッドが隣接する部屋を抜けます。
奥の居間は巨大モニターとこたつがドーンと据えられ、その周りにゲームやら本やら衣類やらバッグやらが雑然と積み重なっています。
障子越しに西日がさす、ほの暗い居間。窓のそばを走る常磐線の電車が通り抜けていく音が鳴り響きます。
「ぷよぷよの社長をやってた最盛期は月収1千万円ぐらい。自社株を買うのに使ったから、倒産したら何にも残らなかった。残ってたらこんなところに住んでいないでしょ。離婚もしましたし」。
こたつにすっぽり入った仁井谷さんが半生を語り始めました。
1950年、広島県三原市生まれ。
秀才だった仁井谷少年は広島大学理学部に現役合格するものの、ときは学生運動が盛んだった〝1969〟。学業そっちのけでのめり込み、果ては三里塚闘争で逮捕され、広島大学は7年在籍したのち除籍となります。その後、広島電鉄の車掌をやったり、塾を経営したり。職を転々とし、やがてPCショップ店員に落ち着きます。
ショップ勤めかたわら、PCの草分けといわれる「Apple Ⅱ」を購入し、家でひとりコツコツとゲーム開発を始めた仁井谷青年。そのとき28歳。「モノをつくるのはもともと好きだった。作ったモノが自分の設計通りに動くのが楽しかったから」と振り返ります。
プログラミングは本を片手に独学で身につけたそうです。
そして転機が訪れます。
「ゲームボーイでテトリスが世界中ではやっていた。作るなら落ちゲーだと思った」
91年、ぷよぷよの誕生です。
90年のスーパーファミコン登場に乗り、ぷよぷよは年間100万本超の出荷という空前の大ヒットを記録します。
設立した会社「コンパイル」は、96年度には売上高70億円企業に。自身の収入は月収1千万円を超えたそうです。まだまだバブルの余韻が残っていた90年代。さぞかしブイブイいわせたのでは?
「いやいや全然。お酒も飲まないし、外車にも興味はなかったし、お姉ちゃんはべらせる趣味もなかったし。稼いだお金で自社株を買って、ゲームを作っていましたよ。仕事するのが趣味みたいなものだった」
ゲーム販売の一方、95年に全日本ぷよ協会を設立。協会は「ぷよぷよ段位」を認定し、ユーザーを拡大させます。「ぷよぷよを囲碁のような世界的なゲームに育てたい」と当時の新聞にも載りました。
ぷよぷよのキャラをあしらったコスプレをしたり、全国各地でぷよぷよ大会を開いたり。マスコミには成り上がったゲーム会社の派手な社長として紹介されます。
その勢い、まるでぷよぷよがどんどん積み上がるかのように……。会社が「弾ける日」は着々と近づきます。(つづく)
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