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名古屋城が燃えた日、東京大空襲より「B29」が多かった理由
市長選の争点にもなった名古屋城。5月14日は、その名古屋城が空襲によって焼失した日です。戦争末期、1945年のことでした。名古屋城の歴史を振り返ります。
名古屋城は徳川家康の命で1610(慶長15)年に築城がはじまり、2年後に5層5階、石垣上の高さ約36メートルの天守が完成しました。
天守は延べ床面積4564平方メートルで姫路城の約2倍の規模がありました。1930年に国宝に指定されましたが、1945年5月、アメリカ軍の空襲で天守や本丸御殿が焼失しました。
天守は1959年にコンクリート製で再建され、一帯は国の特別史跡に指定されています。
名古屋城への空襲は、大編隊を組んだ都市圏への最初の空襲でした。その目的は、日本に降伏を迫るためでした。
アメリカ軍の報告書では、B29爆撃機での攻撃目標を「名古屋城周辺」などとし、城を右旋回する形で人口が密集する5カ所に設定。名古屋城は直接の目標ではありませんでしたが、巻き添えとなったといわれています。
サイパンやグアムを出撃し、名古屋に向かったB29は524機。約10万人の死者を出した3月10日の東京大空襲より200機も上回る、当時としては過去最大の編隊でした。16グループに分かれ、午前8時5分からの80分間に2515トンの焼夷(しょうい)弾を波状的に投下しました。
アメリカ陸軍航空軍の公刊戦史によると、アメリカ軍は沖縄での地上戦で多くの犠牲者を出したため、5月8日のドイツに続いて、日本を降伏させようと急いでいました。そのための「新たな焼夷弾空襲の最初のターゲットが、名古屋市北部の市街地だった」と記しています。
名古屋へは、名古屋城を焼失させた5月14日を含め、終戦までに約2600機の米軍爆撃機の飛来があり、60回ほど空襲があったとされ、死者数は7800人以上、被害戸数は13万5千戸以上といわれています。
現在の名古屋城の天守はコンクリートによる複製です。1959年の完成。工事費は6億円(市試算で現在の106億円に相当)で、名古屋の復興を象徴する一大事業でした。現在は市が所有、管理しています。
再建から半世紀以上が経ち、「老朽化」が問題になり、市の2010年度の調査で、震度6強以上の揺れで倒壊する恐れが強いという結果も出ました。
そんな中、出てきたのが、河村たかし市長による木造化の構想です。もともと、初当選直後の2009年から「都市として自慢できるものが欲しい。コンクリート製では名古屋人として寂しい」と訴えていました。
2017年4月にあった名古屋市長選で、名古屋城天守木造化を掲げた河村市長が再選。5月には市が江戸時代半ばにあった「宝暦の大修理」後の姿で復元する方針を決めました。
市が木造化のために施工業者と結んだ基本協定では、完成は約5年半後。最大505億円の事業費は入場料で賄う計画になっています。
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