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キューバにあって、日本にないもの 「フィデルおじさん」の〝遺産〟
キューバと聞いて、何を思い浮かべますか。野球が強い国? 葉巻やラム酒? それとも、陽気なサルサ音楽のイメージでしょうか。社会主義の国というと、北朝鮮のように閉鎖的な国というイメージをもつかもしれませんが、現地で取材した朝日新聞東京本社・映像報道部の遠藤啓生カメラマン(36)が見たのは、意外な一面でした。
男性に肩車され、キューバの国旗を手に顔を覆う男の子。なぜ、こんなに気を落としているんでしょう? そのワケは、「フィデルおじさん」の死です。
「フィデルおじさん」とは、フィデル・カストロ。キューバの前トップです。1959年のキューバ革命で、それまでアメリカの植民地のようだったキューバを、反アメリカの社会主義の国へと変え、「反米帝国主義のカリスマ」とも呼ばれました。
「日本では、カストロって反対派の処刑とか言論統制とか、陰の部分がクローズアップされることも多いですよね。でも、キューバの人たちにとっては、『偉大な指導者』というより、親戚のおじさんのような存在なんだと思います」
「キューバでは小さい子でも、『わたしたちが教育や医療を無料で受けられるのは、フィデルおじさんのおかげ』と知っている。追悼集会で、子どもたちが涙を流していたのが印象的でした」
遠藤カメラマンは11月28日~12月5日の8日間、キューバに滞在しました。
首都・ハバナでの追悼集会は、11月29日。その後、遺灰は車で各地を巡り、12月4日に東部の街サンティアゴデクーバで埋葬されます。遠藤カメラマンは丸一日かけてハバナからサンティアゴデクーバへ先回りし、キャラバンの到着を待ち構えました。
サンティアゴデクーバまでは片道1千キロ。飛行機やバスのチケットが取れず、8人乗りの車をチャーターしました。
コロニアル様式の建物が立ち並び、アメ車が行き交うハバナを出ると、しばらくは舗装された一本道が続きます。
ところが、走るほどに道幅は狭まり、体が浮くほどのガタガタ道に。車窓にはヤシの木やサトウキビ畑。生活の足でもあるほろ馬車が行き交います。
3、4時間ごとの休憩で立ち寄った街は、どこも閑散としていたそうです。「12月4日までは喪に服していたんです。移動中、あてにしていたレストランもことごとく閉まっていて、すごく空腹でした」
そんな15時間のドライブを耐えて、目的地に着いたのは午後10時半ごろ。宿の女性が迎えてくれました。
「夜も遅いのに、おばちゃんはたくさんの料理を用意してくれていました。豚バラ肉を煮込んだもの、クスクスみたいなもの、キャベツとたまねぎのコールスロー……。赤い米を塩で炊き込んだものも、すごくおいしかった。7人でも、食べきれないほどで。あれは本当にうれしかったです」
遺灰を載せた車列がサンティアゴデクーバにやってきたのは、その翌日でした。
通りは人々で埋め尽くされ、屋根の上にも、国旗や手書きのメッセージをかかげる人たちの姿が。陽気な歌声が響く中、あちこちから「わたしはフィデル!」という叫び声が上がります。遠藤カメラマンは人々の熱気を写そうと、何度もシャッターを切りました。
「キューバに行く前は、感情も含めて統制された国なのかなと思っていたけど、そうじゃなかった。国のシステムこそ社会主義だけど、人々はとてもフレンドリーだし、感情をすごく表に出すんですよね」
アジア人のカメラマンが珍しかったのか、街中で話しかけられることも多かったそうです。
「キューバの人はこの国をもっと知ってもらいたいという気持ちが強くて、すごくアピールしてくるんですよ。これから僕たちは豊かになるんだ、という前向きさを感じました。世界を見回しても、そういう国ってあまりないですよね。だいたいが発展し尽くして暗くなっているか、発展をめざして苦しんでいるような国だから」
キャラバンを見送った後の様子にも、驚いたといいます。「みんなわりと、けろっとしているんです。肩を組んで、『飯でも食って帰ろうぜ』みたいな。ずっと悲しみにくれてというよりは、フィデルを見送れた満足感のようなものを感じました」
ところで、遠藤カメラマンは今回、1千キロの移動よりも「日本との連絡がいちばんしんどかった」と振り返ります。というのも、日本から持っていったスマホが満足に使えず、衛星携帯電話も当局の規制で持ち込めませんでした。
キューバではネットも国が管理していて、一部のホテルを除き、一般には普及していないそう。スマホはあっても、ほぼメールや電話専用なので、日本でおなじみの「歩きスマホ」も無縁です。Wi―Fiが使える公園に集まるのも、先進国から来た人ばかりだったそうです。
取材中、現場から本社に写真を送れず途方にくれたことも。そんな時に助けてくれたのは、大手通信社のキューバ人ジャーナリストだったといいます。「せっかく日本から来たんだから」と、特別に開設していた通信回線を使わせてくれたのです。
また、サンティアゴデクーバの宿はインフラが不十分で、蛇口をひねっても出てくるのはお湯ではありませんでした。シャワーは、じょうろにためた水を電熱器で温める簡素なもの。
そんな滞在を快適にしてくれたのはやはり、くだんの「おばちゃん」の心遣いでした。毎晩、取材で遅くなる遠藤カメラマンたちを「おなかがすいたら良い仕事はできないよ」とねぎらい、テーブルいっぱいの手料理でもてなしてくれたといいます。
彼女は最終日、遠藤カメラマンをぎゅっと抱きしめて、別れを惜しんでくれたのだとか。
「テレビもつまみでチャンネルを変えるような旧式だし、トイレも水がすごく出るわけではない。日本のように、モノがあふれているわけではないです。でも、人間の尊厳を否定されるような貧しさ、先進国にあるような虐げられた貧しさは感じませんでした」
「子どもたちもそうです。ディズニーのアニメは流れていないかもしれないけど、青い空の下で、奇麗な制服を着させてもらえてる。ストリートチルドレンも見かけなかった。人間としての尊厳がすごく尊重されている国だなって思いました」
この記事は1月21日朝日新聞夕刊(一部地域22日朝刊)ココハツ面と連動して配信しました。
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