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「自分が聞きたくないものは嫌」フジロック作った男 日高正博の人生

フジロックの生みの親で興業会社「SMASH」社長の日高正博さん
フジロックの生みの親で興業会社「SMASH」社長の日高正博さん

目次

 今年も夏フェスのシーズンがやってきました! すっかり夏の風物詩として定着した野外フェスですが、中でも20回目のフジロック・フェスティバルは、日本の「フェス文化」を築いた草分け。いまや「世界のFUJI」と呼ばれ、10万人以上が詰めかける巨大イベントも、はじまりは一人の男が抱いた夢でした。フジロックの生みの親・日高正博さん(67)は、自分の心に正直に、無謀にも見えた夢を次々とかなえてきました。その生き方は、まさにロックンロール!!

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「ゴミの撤去だけで何千万円も」

 1997年の1回目は、台風とかいろんなことが起きたよなあ。俺たちも、警備や安全対策が万全じゃなかったから、会場までの道で渋滞が起きてバスが着かない。お客さんも山の中でのイベントに慣れてなくて、寝るとこも用意してない人ばっかりだった。今でも忘れられないのは、ゴミのすごさ。撤去だけで何千万円も払ったもん。そういう運営の難しさも含めて思い出だね。

 中止を決めたのは、2日目の朝4時くらい。(会場だった)天神山スキー場(山梨)の支配人を起こして、「すみません、中止します」って伝えて。

 それまでは、とにかくやりたいからやって、次の年のことなんて考えてなかった。でも支配人に「どうするんですか、来年?」って聞かれたから、「やる」って。

 好きな音楽を、自然の中でみんなで楽しもうっていうのは俺の夢だったし、実際30年近くかかったのかな。(コンサートプロモート会社)スマッシュを作ってからも14年。「とにかくこれじゃ終わらんぞ」って思ったんだよね。

20回目を迎えたフジロック。会場内には記念撮影用のパネルに行列ができていた=22日、新潟県湯沢町の苗場スキー場
20回目を迎えたフジロック。会場内には記念撮影用のパネルに行列ができていた=22日、新潟県湯沢町の苗場スキー場

「日本的な価値観をぶち壊したかった」

 イギリスのグラストンバリー・フェスティバルに行ったときに、ああ、理想だなって。ただ音楽をやるだけじゃなくて、舞台もやってるし、サーカスやコントとか、アトラクションもいっぱいあるし。こういうのが日本でできればいいなと思ったのがフジロックの始まり。

 日本にはずっと、音楽は座って静かに聞くもんだっていうのがあって。70年代って俺もよくコンサートに行ったけど、立つと座れって抑えつけられるし、ひどいと会場からつまみ出されちゃう。そういう日本的な価値観を、音楽を通じてぶち壊したかった。

 でも、最初はできるとは思わなかった。だから頭の中にずっと抱えて、誰にも言わなかった。

 ただ、旅行は好きだったから、ジープにキャンプ道具だけ載せてあちこち行った。それがだんだん、本格的な場所探しになったんだよね。行く先々で「ここどなたの土地ですか?」って。まるで不動産屋さんだよね(笑)。

 そういうことを延々やってたら、富士山のふもとに行き着いて。広さは不満だったんだけど、東京から1時間っていうのがよかった。実際には当日の台風で6時間もかかったんだよな。

イギリスのグラストンバリー・フェスティバルの様子=2016年6月23日
イギリスのグラストンバリー・フェスティバルの様子=2016年6月23日 出典: ロイター

「木を切りたくないから、木は残してくれ」

 で、次の年は豊洲(東京)でやった。メディアに相当たたかれたよ。テレビ局はヘリコプターを飛ばして、「ここにも(熱中症で)人が倒れてます」「東京のど真ん中で変な集団が何かやってます」って。ほんとだよ。

 そしたら、(元コクド会長の)堤義明さんがたまたまニュースを見てたんだってさ。苗場のプリンスホテルは冬しか人が来ないの。夏はガラガラ。それで、「やればいいじゃないか」って言ったらしいんだよ。

 でも俺、2、3年前に見にいってたから。そこにステージを作っても5千人も入らないし、スキー場だから急斜面。だから「できない」って答えた。

 そしたらプリンスの人が、とにかくもう一回見てくれって言うから、うちの連中を連れてったのね。それが98年の10月の終わりか。

 そしたら、あそこはテニスコートとゴルフ場と駐車場が三つ一緒になってた。これならできると思って、「こことここを潰してならして、テニスコートもゴルフ場も取っ払ってくれ」「俺は木を切りたくないから、木は残してくれ」って。それで(メインステージの)グリーンステージができたの。

 ステージが1個じゃ無理だから、ホワイトステージも作ることにして。

テニスコートとゴルフ場、駐車場の跡地にできたというメインのグリーンステージ=22日、新潟県湯沢町の苗場スキー場
テニスコートとゴルフ場、駐車場の跡地にできたというメインのグリーンステージ=22日、新潟県湯沢町の苗場スキー場

「SAKEROCKは、俺が勝手に選んだ」

 で、雪が溶けた頃にまた行って、そこで見つけたのが「フィールド・オブ・ヘブン」。ホワイトから歩いていったら、バーンと開けて。あれを見た瞬間、「俺、もう一個ステージ作る」って。それが5月だから、うちの連中は「また無理難題かよ!」みたいな感じで怒りに怒って怒り狂ってた(笑)。

 じゃあもう一個おまけだってことで、いまでいう(新人アーティストのためのステージ)「ルーキー・ア・ゴー・ゴー」みたいなステージも作った。

 俺の夢の一つはルーキー・ア・ゴー・ゴーから、グリーンステージのヘッドライナーが出ること。ルーキーってオーディションなんだよ。最初はテープが200くらいきたのかな。

 SAKEROCKは、俺が勝手に選んだ。そういうバンド、二つか三ついるよ。去年、(元SAKEROCKの)星野源君はグリーンに出たよね。本部の横で会ったら「ルーキーに出たんです」って言うから、「知ってる。俺が選んだもん」とかって。

森の中を抜けると、「フィールド・オブ・ヘブン」が見えてくる。日高正博さんは一目見てステージ名が頭に浮かんだという=22日新潟県湯沢町の苗場スキー場
森の中を抜けると、「フィールド・オブ・ヘブン」が見えてくる。日高正博さんは一目見てステージ名が頭に浮かんだという=22日新潟県湯沢町の苗場スキー場

「オアシスっていうのがやるって聞いて」

 そういうの多いよ。俺の30~40代は海外がほとんどだったけど、何のルートもなくて、とにかく自分の足でちっちゃいクラブを何百件と回った。一番多いときは、一晩に三つか四つのバンドを見た。

 そのときにロンドンで「ザ・100クラブ」ってのがあってね。ローリング・ストーンズがデビューのときから出てるとこで。

 そこでオアシスっていうのがやるって聞いて、見にいった。400人くらいのとこに、200人も入ってなかったな。でも、絶対売れるって思った。それから3カ月後かな、日本でライブをやるようになったのは。

オアシスのメンバー=2006年2月25日
オアシスのメンバー=2006年2月25日 出典: ロイター

「俺嫌いなんだよ、何回目とか」

 アーティストを選ぶ基準? 自分が聞きたくないものは嫌だ。それだけ。というのも、40年近く音楽の仕事しててさ、音楽にウソをつきたくないのね。いくら金になるからって、それをやるくらいなら、どっかに泥棒に入った方がいいよ。

 20年やっての感想なんて、何もない。俺嫌いなんだよ、何回目とか。ただみんなにはよくついてきてくれたなって思うよ。俺の勝手な夢をみんながかなえてくれたから。

 3世代ってのは夢だよね。孫が「じいちゃん、こんな音楽好きだったの?」とか、ラップ好きの子どもに「お前が聞いてる音楽は、しゃべってるのか歌ってるのかわからんのう」とか。3世代で話をするっていうさ。そういうのっていいなって思うんだ、俺は。

 あと何年やるかって? 明日は明日の風が吹くっつってさ。とにかく明日はあるよ。だから明日考える。

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