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「五代ロス」五代友厚のワイルドな人生 捕虜経験し渡欧、実業家に
「五代ロス」という言葉を生んだ五代友厚とは、どのような人物だったのか? 「東の渋沢、西の五代」と呼ばれた人生を振り返ります。
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「五代ロス」という言葉を生んだ五代友厚とは、どのような人物だったのか? 「東の渋沢、西の五代」と呼ばれた人生を振り返ります。
NHK連続テレビ小説「あさが来た」で最期を迎えた五代友厚。ネット上では「五代ロス」という言葉も生まれています。「東の渋沢、西の五代」と呼ばれた五代友厚とは、どのような人物だったのか? 「五代ロス」に悲しむファンのために、ドラマではもう会えない五代の功績を振り返ります。
五代は1836年、薩摩藩町奉行の次男として生まれました。幼い頃から才気あふれる少年として評判で、特に海外に対する知識欲が強かったそうです。
1862年9月に発生した生麦事件をきっかけに起きた薩英戦争では捕虜として捕らえられ、罪人扱いとなります。
幕府や攘夷(じょうい)派から逃れるため長崎に潜伏した時期、旧グラバー住宅で知られるトーマス・ブレイク・グラバーと知り合います。今も長崎市にある国内初の西洋式の修理場、小菅修船場は、五代とグラバーが造ったものです。
薩英戦争の経験から開国と富国強兵の考えを強くした五代は、海外留学生派遣を藩主に強く提案しました。
そして、当時31歳だった五代は、後に家老となった新納久修と共に、団長格として留学生を率いてヨーロッパを訪れます。
留学生とは別に、経済使節としてイギリス国内やヨーロッパ大陸を視察し、紡績機械を買い付けるなど、薩摩の殖産興業に一役買っています。
1869年、官職を辞めた五代は、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)の初代会頭となり、維新後の日本経済近代化に指導的な役割を果たしました。
「東の渋沢、西の五代」と並び称され、商法の恩人として今も大阪の人々に愛されている五代。2004年、旧館の正面玄関を残してリニューアルされた大阪証券取引所の前には、設立に努めた五代の巨大な像が建っています。
ドラマによって各地に五代ファンが生まれています。
福島県桑折町(こおりまち)の旧伊達郡役所では、企画展「半田銀山と五代友厚の足跡」が開かれています(5月8日まで)。ディーン・フジオカさんが福島県出身ということもあり、県内外から多くの人が訪れているそうです。
町内にある半田銀山跡はかつて、石見や生野などと並ぶ国内屈指の銀山でした。明治期に五代が欧米式の技術を導入し、経営していました。職員が用意した約100部のパンフレットは初日で半分なくなり、町は急きょ約3千部を増刷する人気です。
五代の銅像がある大阪取引所では、22日の放送後に訪れたファンの姿が見られました。大阪市の70代女性は「五代さまが死んでしまったので見に来たくなった」と話していました。ツイッターでは「五代さまロスです」「五代はん…。明日からどうすれば」などと嘆きがつぶやかれました。
五代はなぜここまで人気を集めたのか。ライターの島﨑今日子さんは「性別を超えてあさを認め、導く理想のメンター(助言者)。夫・新次郎が理想の夫とすれば、2人を足せば理想の男性像になる」と指摘しています。
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