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PL学園、人文字も存続危機 創部以来の伝統「甲子園でも観たい!」
アルプススタンドの人文字を広めたPL学園。存続の危機に揺れるこの夏、ファンからは「甲子園でも人文字を!」というメッセージが寄せられています。
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アルプススタンドの人文字を広めたPL学園。存続の危機に揺れるこの夏、ファンからは「甲子園でも人文字を!」というメッセージが寄せられています。
春夏の甲子園で計7度の優勝を誇るPL学園野球部。この春からは部員募集を停止し、存続の危機に揺れています。そんなPL学園は、アルプススタンドの名物である人文字を広めた学校としても知られています。28日の準々決勝、1―2で大体大浪商に敗れたPL学園。この夏、ファンからは「甲子園でも人文字を見たい!」という熱いメッセージが寄せられていました。
PL学園野球部は、プロ野球広島カープの前田健太投手や、「KKコンビ」として2度の全国制覇を成し遂げた清原和博さん、桑田真澄さんら、数々の野球選手を輩出した伝統校です。
しかし、2013年2月に部内で起きた暴力事件の影響で当時の監督が退任。野球経験のない校長が監督してベンチ入りする事態に。この春からは部員募集も停止しました。今夏の大会、部員たちは「名門復活へ最後のチャンス」との思いで挑んでいます。
PL学園は、野球の実力だけでなく人文字でも高校野球の歴史を作ってきた伝統校です。1956年の野球部創部から、七色のボードを使いスタンドに文字を作ってきました。デザインはコンピューターを駆使しして作られており「ハイテク応援」として知られています。
人文字の現場は高度にシステム化されています。1996年の甲子園出場時には、定時制の生徒10人がパソコンを使って人文字を「設計」しました。設計図を元にした「カラーブック」を応援席の一人ひとりが所持。カラーブックには、青、白、赤、黄、オレンジ、緑、ピンクの順に七色の厚紙がつづられ、表紙には、「1青」「2黄色」「3黄色」という具合に、座席ごとに異なる指示表が貼られていました。
応援執行部員や生徒会役員ら二十数人が務めるリーダーが「『打て』です」と模様を示し、次に「一枚目です」「二枚目です」などと、めくるタイミングを指示。生徒はその通りに厚紙を出していけば人文字ができあがるという流れです。生徒は15分も練習すれば人文字を作れるほど、洗練されたシステムだったのです。
PL学園の応援は、人文字対決という新たな舞台を作りました。
1991年夏、大阪桐蔭が甲子園で「熱戦」「青春」「汗」「涙」の人文字を作り大観衆を驚かせました。初優勝を決めた瞬間には、「日本一」の文字が感動を呼びました。
仕掛けたのは当時、野球部長だった森岡正晃さんです。森岡の頭にあったのがPLの人文字でした。かつてPL野球部で主将を務めた森岡さん。甲子園をめざしましたが、その時かないませんでした。高校時代の夢が、指導者として実現していたのです。
森岡さんは当時の応援について「まねとは思わなかった。人文字はPLだけのものじゃない。もう大阪の象徴だった」と振り返っています。
1995年3月、第67回選抜高校野球の時には、PL学園のアルプススタンドに「希望」「輝け」「未来」の文字が浮かび上がりました。この年、発生した阪神大震災の被災地を激励するメッセージでした。応援部長の石井安美君は「この人文字で、被災地の人たちの心が少しでも温まれば」と話していました。
高校野球に人文字を根付かせたPL学園。惜しくも準々決勝で敗れてましたが、ツイッターには「PLの人文字応援を見たくて 甲子園に行ったなぁ」「甲子園応援席を飾るPL人文字を、観たい、観たい、観たーい」と、ファンの熱いメッセージが寄せられていました。
@wakaki_chi 何度も何度も呟くけど、甲子園応援席を飾るPL人文字を、観たい、観たい、観たーい\(^o^)/
— ふくちゃん☻ (@wakaki_chi) 2015, 7月 23
@0724smap
OBで誰か監督をやってくれる人は
いないのかな?
PLの人文字応援👊😄📢を見たくて
甲子園に行ったなぁ。
当時は立浪さんが居たっけ。
— のり (@0724smap) 2015, 7月 24
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