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PL学園、人文字も存続危機 創部以来の伝統「甲子園でも観たい!」

アルプススタンドの人文字を広めたPL学園。存続の危機に揺れるこの夏、ファンからは「甲子園でも人文字を!」というメッセージが寄せられています。

「甲子園名物」として人気のあるPL学園の人文字=2003年8月10日、兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で
「甲子園名物」として人気のあるPL学園の人文字=2003年8月10日、兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で 出典: 朝日新聞

目次

 春夏の甲子園で計7度の優勝を誇るPL学園野球部。この春からは部員募集を停止し、存続の危機に揺れています。そんなPL学園は、アルプススタンドの名物である人文字を広めた学校としても知られています。28日の準々決勝、1―2で大体大浪商に敗れたPL学園。この夏、ファンからは「甲子園でも人文字を見たい!」という熱いメッセージが寄せられていました。

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「名門復活へ最後のチャンス」

 PL学園野球部は、プロ野球広島カープの前田健太投手や、「KKコンビ」として2度の全国制覇を成し遂げた清原和博さん、桑田真澄さんら、数々の野球選手を輩出した伝統校です。

 しかし、2013年2月に部内で起きた暴力事件の影響で当時の監督が退任。野球経験のない校長が監督してベンチ入りする事態に。この春からは部員募集も停止しました。今夏の大会、部員たちは「名門復活へ最後のチャンス」との思いで挑んでいます。

PL学園時代の清原(右)と桑田=1984年8月10日
PL学園時代の清原(右)と桑田=1984年8月10日 出典: 朝日新聞
3月に現役を引退した元大リーグ・パイレーツの桑田真澄氏が29日、スカイマークスタジアムでオリックスの清原の練習に参加し、打撃投手を務めた。2人は大阪・PL学園高の同級生。高校時代に春夏計5度の甲子園大会に出場して「KKコンビ」と騒がれ、2度の全国制覇を成し遂げた。
2008年7月30日:最後のKK対決 桑田氏、清原の打撃投手:朝日新聞紙面から
25日にあったプロ野球の高校生ドラフト(新人選択)会議で、広島カープは1巡目にPL学園(大阪)の前田健太投手を、3巡目には水戸短大付(茨城)の会沢翼捕手を指名した。県内からは、吉川光夫投手(広陵)が日本ハム、延江大輔投手(瀬戸内)がオリックスからそれぞれ1巡目で指名された。
2006年9月26日:ドラフト、カープ2高校生指名 PL学園の前田投手と水戸短大付の会沢捕手:朝日新聞紙面から
来年度の新入部員受け入れ停止が決まっているPL学園高(大阪)の硬式野球部OB会が、学校に嘆願書を提出したことが11日、分かった。内容は野球経験のある監督の選定と部員受け入れ再開の2点。2013年2月の部内暴力で当時の監督が退任。同年秋の府大会から昨秋の近畿大会まで、野球経験のない正井一真校長が監督としてベンチ入りした。
2015年1月12日:PL学園高野球部OB会が部存続へ嘆願書:朝日新聞紙面から
春夏の甲子園で計7度の優勝を誇るPL学園(大阪府富田林市)野球部が、特別な夏を迎える。野球経験のある監督がいない状態が続く中、この春からは部員募集も停止。3年生21人、2年生12人の部員は、「名門復活へ最後のチャンス」との思いで挑む。
2015年6月16日:PL野球部、特別な夏 部員募集停止 「こういう時こそ一つに」:朝日新聞紙面から

高度にシステム化された人文字

 PL学園は、野球の実力だけでなく人文字でも高校野球の歴史を作ってきた伝統校です。1956年の野球部創部から、七色のボードを使いスタンドに文字を作ってきました。デザインはコンピューターを駆使しして作られており「ハイテク応援」として知られています。

 人文字の現場は高度にシステム化されています。1996年の甲子園出場時には、定時制の生徒10人がパソコンを使って人文字を「設計」しました。設計図を元にした「カラーブック」を応援席の一人ひとりが所持。カラーブックには、青、白、赤、黄、オレンジ、緑、ピンクの順に七色の厚紙がつづられ、表紙には、「1青」「2黄色」「3黄色」という具合に、座席ごとに異なる指示表が貼られていました。

 応援執行部員や生徒会役員ら二十数人が務めるリーダーが「『打て』です」と模様を示し、次に「一枚目です」「二枚目です」などと、めくるタイミングを指示。生徒はその通りに厚紙を出していけば人文字ができあがるという流れです。生徒は15分も練習すれば人文字を作れるほど、洗練されたシステムだったのです。

第52回全国高校野球選手権大会 手に持ったカラーブックにPL学園名物の人文字演出の手順が書き込まれている=1970年8月1日
第52回全国高校野球選手権大会 手に持ったカラーブックにPL学園名物の人文字演出の手順が書き込まれている=1970年8月1日 出典: 朝日新聞
三十九年前の野球部創部から始まった同校の人文字は、コンピューターを駆使した「ハイテク応援」として知られ、七色のボードで華やかにスタンドを彩ってきた。
1995年3月26日:PL、人文字で阪神大震災被災地激励 第67回選抜高校野球:朝日新聞紙面から
一人ひとりが「カラーブック」を持っている。カラーブックには、青、白、赤、黄、オレンジ、緑、ピンクの順に七色の厚紙がつづられている。表紙には、「1青」「2黄色」「3黄色」という具合に、座席ごとに異なる指示表が張られている。同校の応援執行部員や生徒会役員ら二十数人が務めるリーダーが「『打て』です」と模様を示し、次に「一枚目です」「二枚目です」などと、めくるタイミングを指示する。生徒はその通りに厚紙を出していけばいいようになっている。以前は、ます目の紙を使っていたが、今は同校定時制の生徒十人がパソコンを使って人文字の「設計」をしている。人文字練習は高度にシステム化され、十五分も練習すればOK、という。
1996年8月14日:PL学園名物の人文字、7色15種 第78回全国高校野球:朝日新聞紙面から

「人文字対決」という新たな魅力

 PL学園の応援は、人文字対決という新たな舞台を作りました。

 1991年夏、大阪桐蔭が甲子園で「熱戦」「青春」「汗」「涙」の人文字を作り大観衆を驚かせました。初優勝を決めた瞬間には、「日本一」の文字が感動を呼びました。

 仕掛けたのは当時、野球部長だった森岡正晃さんです。森岡の頭にあったのがPLの人文字でした。かつてPL野球部で主将を務めた森岡さん。甲子園をめざしましたが、その時かないませんでした。高校時代の夢が、指導者として実現していたのです。

 森岡さんは当時の応援について「まねとは思わなかった。人文字はPLだけのものじゃない。もう大阪の象徴だった」と振り返っています。

人文字が鮮やかに描き出された大阪桐蔭スタンドのアルプス席(写真は2002年8月9日撮影)
人文字が鮮やかに描き出された大阪桐蔭スタンドのアルプス席(写真は2002年8月9日撮影) 出典: 朝日新聞
91年夏。今度は大阪桐蔭が大観衆を驚かせた。「熱戦」「青春」「汗」「涙」。1200人の生徒が100以上の文字を一瞬で表現してみせた。初優勝を決めた瞬間には、「日本一」の文字が感動を呼んだ。
2006年8月5日:(アルプスにふるさとを見た)大阪 なにわ人文字対決 高校野球:朝日新聞紙面から
「みんなが一つになれるものがいい」当時、野球部長だった森岡正晃さん(43)が応援方法を決める打ち合わせで発言した。頭にはPLの人文字のイメージがあった。かつてPL野球部で主将を務め、甲子園をめざした。その時かなわなかった夢が、指導者として実現していた。
2006年8月5日:(アルプスにふるさとを見た)大阪 なにわ人文字対決 高校野球:朝日新聞紙面から

阪神大震災の年は「希望」「輝け」「未来」

 1995年3月、第67回選抜高校野球の時には、PL学園のアルプススタンドに「希望」「輝け」「未来」の文字が浮かび上がりました。この年、発生した阪神大震災の被災地を激励するメッセージでした。応援部長の石井安美君は「この人文字で、被災地の人たちの心が少しでも温まれば」と話していました。

 高校野球に人文字を根付かせたPL学園。惜しくも準々決勝で敗れてましたが、ツイッターには「PLの人文字応援を見たくて 甲子園に行ったなぁ」「甲子園応援席を飾るPL人文字を、観たい、観たい、観たーい」と、ファンの熱いメッセージが寄せられていました。

練習試合でベンチから声を出すPL学園の部員たち。「名門復活へ最後のチャンス」と奮闘する=2015年6月13日、PL学園のグラウンド
練習試合でベンチから声を出すPL学園の部員たち。「名門復活へ最後のチャンス」と奮闘する=2015年6月13日、PL学園のグラウンド 出典: 朝日新聞


「希望」「輝け」「未来」。阪神甲子園球場の一塁側アルプススタンドに、赤と青の人文字が次々と浮かびあがった。PL学園の生徒たち四百八十人が、被災地の人たちに贈った激励のメッセージだ。応援部長の石井安美君は「この人文字で、被災地の人たちの心が少しでも温まれば」と話していた。
1995年3月26日:PL、人文字で阪神大震災被災地激励 第67回選抜高校野球:朝日新聞紙面から

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