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鶴見俊輔氏死去 万引き・退学…小学校卒でハーバード 行動派知識人
93歳で死去した鶴見俊輔さんは15歳で渡米。ハーバード卒という経歴を持つ反面、実は、万引きをしたり、不登校になったり、破天荒な少年時代でした。
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93歳で死去した鶴見俊輔さんは15歳で渡米。ハーバード卒という経歴を持つ反面、実は、万引きをしたり、不登校になったり、破天荒な少年時代でした。
93歳で死去した鶴見俊輔さんは15歳で渡米。ハーバード大卒という経歴の一方で、万引きをしたり、不登校になったり、破天荒な少年時代を送っていました。帰国後はベトナム戦争に反対、憲法問題にも積極的に関わり、行動する知識人として歴史に名前を残しました。
「母親は小遣いをくれなかった。万引きしては換金し、家の門の下に土を掘って埋め、必要なときに掘り出して使っていた」
1998年2月5日のインタビュー記事で、決して優等生ではなかった少年時代を振り返っています。
小学校は当時のエリート校、旧東京高師(現筑波大)付属小でした。しかし、成績が悪くて付属中に進めません。受験して東京府立高等学校尋常科に入りますが「朝起きると学校へ行けない」という状況に。2カ月でやめ、次に入学した東京府立第五中学校も二学期までしかもちませんでした。「これでぼくの日本での学歴は終わった」
15歳の時、将来を心配した親のすすめで、アメリカに留学します。アメリカではミドルセックスというハーバード大学へ進学する者が多い予備校へ入ります。「そこでは私がだれであるかを周りの人は知りませんし、私もまじめでした」。日本とは違う環境で勉強に励み、16歳でハーバード大学に入学します。
ハーバード大生の時に日米が開戦。日本人の鶴見さんは敵国人として逮捕され留置場に入れられます。留置場で書いた卒論が、教授会の投票で認められ卒業しました。
1998年2月3日のインタビュー記事で、鶴見さんは祖国との違いを実感した瞬間について語っています。「政府と大学が別の判断に立つことを知った。アメリカの民主主義の岩床はしっかりしていることを、この獄中の体験でつかんだ」。
日本は必ず負けると確信していたという鶴見さん。「負けるときには日本にいたい」と、1942年に捕虜交換船で日本へ帰ります。
戦後は、ベトナム戦争に反対する「ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)」で、米軍脱走兵を支援します。近年では、憲法についても発言。憲法改正が現実味を帯びると、作家の大江健三郎さんら文化人でつくる「九条の会」を立ち上げます。
2005年10月にあった講演会では、憲法への熱い思いを語っています。
「私は戦争の中で生きてきました。戦争が自分の中に遺(のこ)したものが、私を憲法9条を守る方向へ持っていったんです。私は1億人の中の一人になっても、やりますよ。あったりまえのことだ」
鶴見さんは、山上たつひこさんのマンガ「がきデカ」を、高く評価するなど、独特のセンスで戦後の日本を論じました。
「がきデカ」の主人公は、ムキダシの欲望であばれ回る少年です。
そんな「がきデカ」について、鶴見さんは「自分の欲望に従って生きようというがきデカが増えたことがファシズムの防波堤になる、と思う。簡単に、命令一下の体制に追い込むわけにはいかないですよ」と評しました。
日米開戦を身をもって体験し、戦時中に帰国。戦後の高度経済成長、バブル、そして東日本大震災による原発事故まで、その視野の広さと深い思想は、知識人だけではない、多くの人に影響を与えました。
震災後の2011年6月21日にあった講演で「日露戦争以来、大国になったつもりで文明の進歩をひたすら信じ続けてきた日本人は、敗戦後も目をそらしてきた根本問題に(震災と原発事故で)直面している」と語っていた鶴見さん。
「受け身の力をここで超えること。九条は、何らかの行動、態度の表明で裏付ける方がいい。不服従の行動の用意があるとさらにいい」と訴えていました。
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