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長江の客船転覆、現場は三国志スポットの宝庫 人気コースでまさか…
長江で転覆した客船「東方之星」への救援活動が続いています。船のツアーは三国志ゆかりの地、赤壁や荊州などを観光する人気のコースでした。
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長江で転覆した客船「東方之星」への救援活動が続いています。船のツアーは三国志ゆかりの地、赤壁や荊州などを観光する人気のコースでした。
長江で転覆した客船「東方之星」への救援活動が続いています。船のツアーは三国志ゆかりの地、赤壁や荊州などをめぐり、三峡ダムなど最新の観光スポットも加わる、人気のクルーズでした。
客船の乗客・乗務員はあわせては456人で、その多くは「三峡夕陽紅13日遊」と呼ばれる高齢者のツアーの参加者でした。このツアーのプランでは、初日に上海で集合し、南京に乗船、目的地の重慶を目指します。船の旅は11日間で、毎日一つの観光地に停泊し、観光をします。12日目に重慶から列車で上海へ戻る予定でした。
事故当日は、長江の中流地域を観覧していたところでした。その日は「赤壁古戦場」を遊覧し、周瑜の石像、鳳雛庵、翼江亭などの三国志スポットを巡ることになっており、計画通りなら、次の日に荊州に到着する予定でした。
赤壁といえば、三国志に出てくる「赤壁の戦い」の古戦場として有名です。劉備と孫権の連合軍は曹操が率いる魏の大軍と対戦し、軍師諸葛孔明の策略で曹操軍の船を火で攻めることに。大火で長江の石壁まで真っ赤になり、戦場の印として「赤壁」という名になったと伝えられています。
この戦いによって、もともと軍事的に優位だった曹操軍が敗退を余儀なくされ、劣勢の蜀と呉が勢力を拡大し、三国体制の基礎を構築したと言われています。2009年の映画「レッドクリフ」も「赤壁の戦い」に重点を置いています。
また、三国志ファンにとっては、荊州もなじみのあるスポットです。荊州は「江陵」と呼ばれ、春秋戦国時代(紀元前770-紀元前221年)には楚という国の首都でした。荊州は重要な戦略拠点として、三国時代では各勢力が争奪戦を繰り返しました。
赤壁の戦の後、一度は劉備の蜀国の管轄下に置かれ、関羽がその守備を担当しましたが、呉の奇襲に仕掛けられ、取られてしまいます。「関羽大意失荊州」(関羽が油断して荊州を失った)ということわざが、今でも中国に残されています。
事故現場の「監利県」は現在、荊州市が所轄する県です。赤壁の戦の後、この地域は呉国の領地になり、「監収魚塩之利(魚と塩の専売を監督し、収益する)」という意味で「監利」という名前の行政機構が設置されました。紀元222年に正式な地名として「監利」が使われるようになりました。以来、1800年近くの歴史ある都市となっています。
長江流域は土地が豊かで、歴史も長く、中国文化の重要な発祥地であるため、グルメ・観光地として人気があります。また三峡ダムの建設など、観光・旅行として注目されています。高齢者のツアーのグループの場合、全体的にツアー参加費が低いという特徴もあります。それだけに、今回の事故をめぐっては、業者の安全管理が適切だったのか問う声が強まっています。