お金と仕事
トヨタ、1000万台への軌跡 復興、成長、バッシング、高級路線…
2014年の世界販売台数が1千万台を超え、3年連続で世界トップを維持したトヨタ。戦後復興と高度経済成長による大量生産、高品質に裏打ちされた輸出拡大、貿易摩擦と円高を回避する海外生産シフト、価格競争に対抗するコア技術の発明と高級化路線――。その歩みは、戦後日本の経済史と重なる。
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2014年の世界販売台数が1千万台を超え、3年連続で世界トップを維持したトヨタ。戦後復興と高度経済成長による大量生産、高品質に裏打ちされた輸出拡大、貿易摩擦と円高を回避する海外生産シフト、価格競争に対抗するコア技術の発明と高級化路線――。その歩みは、戦後日本の経済史と重なる。
2014年の国内・海外合計の世界販売台数が初めて1千万台を超え、3年連続で世界トップを維持したトヨタ自動車。戦後復興と高度経済成長による大量生産、高品質に裏打ちされた輸出拡大、貿易摩擦と円高を回避する海外生産シフト、価格競争に対抗するコア技術の発明と高級化路線――。その歩みは、戦後日本の経済史と重なる。
豊田佐吉が創業した豊田自動織機の自動車部門が分離・独立し、トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)が設立されたのは1937年。物資統制に苦しみながら、軍用トラックなどを生産した。
終戦後、欧米メーカーから部品を輸入して完成車を組み立てるだけの「ノックダウン生産」に転じる他社を尻目に、自社設計にこだわって乗用車を開発。55年、トヨペット・クラウンを発表する。当時隆盛を極めたアメリカ車の模倣が目立ったが、57年、米国への初のサンプル輸出に踏み切った。
以来、日本を代表する高級セダンとして、長らく庶民の憧れであり続けた。80年代の「いつかはクラウン」というキャッチコピーはあまりに有名。
高度経済成長まっただ中の60年代半ば、所得の拡大によるマイカーブームで、排気量1リッター前後の大衆車を各メーカーが競って発表する。
トヨタも、のちに世界的ベストセラーとして屋台骨を支えることになるカローラを、66年に発表。ライバルの日産サニーと激しい販売合戦を繰り広げた。
また、東京オリンピックの特需で高速道路網の整備も進み、本格的な走行試験が可能な自動車性能試験場を東富士工場に開設。翌67年には、ジャガーEタイプなど欧米スポーツカーに比肩する名車、トヨタ2000GTが発表された。
70年代のオイルショックを経て、コンパクトで低燃費な国産車は世界市場を席巻する。トヨタの輸出累計も、79年に1000万台を達成した。
その一方で、日米間で貿易摩擦が政治問題化。輸出自主規制が続く中、トヨタは84年、GMとの合弁で北米工場を稼働させる。
VTRやマイコンなどハイテク家電が普及し始める中、81年には、電子制御をふんだんに取り入れた高級クーペのソアラを発表。バブル景気に酔った80年代後半には、デートカーの象徴的存在となる。
バブル崩壊期の92年。どのメーカーも国内販売台数を大きく減らす中、生産拠点の分散や輸出強化のため、トヨタ自動車北海道と同九州の工場操業を始めた。
さらに収益向上を狙ってレクサスブランドの高級車を増やし、現地生産分も含めて海外販売比率が上昇。グローバル企業としての存在感が増していく。
96年には、対米摩擦に配慮し、GMが生産する小型セダン、キャバリエをトヨタブランドで国内発売。ただ、割高な価格に品質が伴わず、販売は不振に終わった。
拡大を続ける中国市場をにらみ、06年、広州でカムリの生産を開始。世界首位を競うライバル、独フォルクスワーゲン(VW)の牙城である中国でのシェア拡大に挑む。
また同年、ハイブリッドカー(HV)プリウスの販売累計が50万台を突破した。高級車ブランドのレクサスでも、HVのGS450hを投入。ラインナップのHV化を強力に進めた。
国内外のライバルメーカーも現実的なエコ技術として追従し、相次いでHVを発売。トヨタが業界標準の技術を握り、エコカー開発競争をリードし続ける。
08年のリーマン・ショック以降は、北米でのリコール騒動や東日本大震災の影響もあり、増減を繰り返す。しかし、米ビッグスリーがより深刻な打撃を受けると、トヨタが08年に初の販売台数世界首位に。その後もHVやレクサスの好調が後押しし、12年からは3年連続で販売台数世界トップを守った。
14年には、世界初の市販燃料電池車(FCV)となるミライを発表。さらに、他メーカーのFCV開発を促してマーケットを拡大させる狙いで、関連特許を無償開放する賭けに出た。
ただ、VWなど欧州勢は、ディーゼルエンジンや電気自動車(EV)にこだわり続け、早期のFCV普及には懐疑的。次世代のエコ技術競争でも、トヨタがHVと同じように主導権を確保できるかどうかが、世界トップを維持するカギになりそうだ。