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ノーベル賞の中村修二教授、直談判し研究費「青色LED絶対売れる」

ノーベル賞に決まった中村修二・米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授。会社員時代、社内の風当たりが強い中で研究を続け、青色LEDの発明に行き着きました。特許についても、裁判を通じて一石を投じていました。

受賞が決まり、研究室で取材に応じる中村修二さん=7日未明、米カリフォルニア大サンタバーバラ校、宮地ゆう撮影
受賞が決まり、研究室で取材に応じる中村修二さん=7日未明、米カリフォルニア大サンタバーバラ校、宮地ゆう撮影 出典: 朝日新聞

目次

ノーベル賞に決まった中村修二・米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授(59)は、社内の風当たりが強い中、固い信念で研究を続け青色LEDの発明に行き着きました。社員が発明した特許についても、裁判を通じて一石を投じた研究者でした。

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不可能と言われた技術、「絶対に売れる自信」

青色LEDの原型が生まれたのは、1993年初めのことでした。80年代には「20世紀中には実用化しない」と言われた技術。中村修二教授は「製品化すれば、絶対に売れる自信があった」と信じて研究を続けました。


東京タワーに輝く、青色LEDの「天の川」 出典: 猛暑に一筋の涼 東京タワーに輝く「天の川」:朝日新聞デジタル
その後、大量生産されることになる青色LEDの原型だ。開発を続けてきた中村修二さんは「製品化すれば、絶対に売れる自信があった」と振り返る。
2013年4月22日:(タイムスリップ)輝いた最後の三原色 青色LED、中村修二氏が実用化 [朝日新聞紙面から]

利益出ない苦境、それでも研究続行

中村教授の研究は困難を極めました。新製品を作っても利益は出ず、社内では厳しい立場に置かれました。上司には「会社の利益をお前が全部開発につぎこんでいる。責任をとれ」と言われたこともあったそうです。

中村修二・米カリフォルニア大教授=2005年1月12日
中村修二・米カリフォルニア大教授=2005年1月12日
中村さんは79年に入社して以来、手がけた製品は他社が先行するものばかり。利益が出ない新製品に、社内の風当たりは強かった。上司には「会社の利益をお前が全部開発につぎこんでいる。責任をとれ」と詰め寄られたという。
2013年4月22日:(タイムスリップ)輝いた最後の三原色 青色LED、中村修二氏が実用化 [朝日新聞紙面から]

クビ覚悟で「やらせて下さい」直談判

1987年、クビを覚悟で当時の社長に「青色LEDをやらせて下さい」と直談判しました。社長から「ええわ、やれ」と数億円の開発費を出す承諾を取り付け、社内の研究者とともに研究を続けました。

日亜化学工業時代の中村修二さん(1996年)
日亜化学工業時代の中村修二さん(1996年) 出典: 朝日新聞
87年、クビを覚悟で当時の社長に「青色LEDをやらせて下さい」と直談判。それまでの実績と好調な会社の業績が後押しし、社長から「ええわ、やれ」と数億円の開発費を出す承諾を取り付け、社内の研究者とともに研究を続けた。
2013年4月22日:(タイムスリップ)輝いた最後の三原色 青色LED、中村修二氏が実用化 [朝日新聞紙面から]

青色レーザーや白色LEDを製品化

中村教授が発明した技法によって、簡易な青色LED作りに成功。1993年には、さらに明るい「ダブルへテロ」という構造のLEDの材料結晶も製品化しました。日亜化学工業は青色レーザーや3原色を重ねた白色LEDを製品化。中村さんは2002年にベンジャミン・フランクリン・メダルを、11年にはエミー賞(技術工学部門)を受賞しました。

中村修二さん
中村修二さん
この結晶を使い、簡易な青色LED作りに成功。さらに明るい「ダブルへテロ」という構造のLEDの材料結晶もこの「窯」で焼き上げて、93年に製品化した。
2013年4月22日:(タイムスリップ)輝いた最後の三原色 青色LED、中村修二氏が実用化 [朝日新聞紙面から]
東京「カレッタ汐留」のクリスマスイルミネーション=2006年12月1日
東京「カレッタ汐留」のクリスマスイルミネーション=2006年12月1日

対価求め訴訟、企業研究者の「功績」に一石

発明の対価をめぐっては、退社した日亜化学を相手取って2001年に訴訟を起こしたことでも知られます(05年に和解)。これは、企業研究者の「功績」について社会に一石を投じた動きでした。

2007年10月18日青色発光ダイオードが取り付けられた試験船「開運丸」。点灯すると、青い光が海面に広く反射した=2007年10月18日、青森県八戸市で.
2007年10月18日青色発光ダイオードが取り付けられた試験船「開運丸」。点灯すると、青い光が海面に広く反射した=2007年10月18日、青森県八戸市で.
 中村修二さん(60)は、青色発光ダイオードの発明対価をめぐり、日本の産業界に一石を投じた先駆者だ。一審で200億円の支払いが認められた裁判は、その後の発明対価の高額化に道を開いた。

 中村さんが発明時に勤めていた「日亜化学工業」を相手取り、提訴したのは2001年のこと。当時、発明特許は企業の財産というのが常識で、会社勤めの技術者が受け取る対価は数千円から数十万円程度。発明時に日亜が出した報賞金も2万円だった。

 サラリーマン技術者が「正当な報酬」を求めて裁判を起こすこと自体が驚きを持って受け止められ、企業活動の中での発明という成果の正当な配分のあり方が議論を呼んだ。中村さんの提訴後、億単位の発明対価を求める技術者が続き、企業の間でも報酬制度を見直す動きが広がった。
朝日新聞デジタル

<中村修二氏の略歴>愛媛県の旧瀬戸町(現伊方町)生まれ。徳島大工学部卒。同大学院修士課程修了後の1979年に徳島県阿南市の化学メーカー日亜化学工業入社。93年に青色発光ダイオード、95年に紫色半導体レーザーの開発に成功。99年末で日亜化学工業を退社し、00年2月に米国へ移住した。

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