連載
「数学で社会課題を解決する」 不思議な錯覚の世界
提供:明治大学
鏡に映すとなぜかまったく異なる形が映し出されたり、あるはずのものがなくなったり、静止画が動いて見えたり……。ネットやSNSで不思議な錯視作品が話題になっています。
錯覚を利用した騙し絵などは昔からありますが、最近は数学やコンピュータを活用した作品づくりも増えているといいます。そこで数理科学を活用した錯視作品を発表している、明治大学特任教授の杉原厚吉先生にお話を伺うことにしました。
杉原先生の研究室には、自ら方眼紙や3Dプリンターで制作した錯視作品がずらりと並んでいます。鏡に映すと角柱が円柱に、女性が男性になるもの。回しても常に右の方向を向く矢印。鏡に映すと一部の絵が消えるもの。間近で見ても、不思議なものばかりです。
また最近、京急の羽田空港国際線ターミナル駅に、錯覚を利用して立体的に見える案内サインが設置されたことがニュースになりました。あれも杉原先生のアドバイスのもと、制作されたものだといいます。
「床に矢印の穴が空き、『ホーム行き』の立体の案内板が置かれているように見えるあのサインは、実際は床の平面のシートに描かれたものです。目の錯覚で平面を立体に見せる、伝統的な手法によるものですね」
サッカーのテレビ中継でゴールの横に立体的に見える広告も、実際は地面のビニールシートに描いた平面の絵だといいます。このような手法はトリックアートとも呼ばれ、観光地のテーマパークでもおなじみです。
人間は網膜で受けた光を脳で処理することによって、何かを〝見ている〟と認識します。脳は過去の経験や先入観に影響されやすいため、ちょっとした工夫で、平面を立体に見せることができるのです。
「人間は一枚の画像を見たとき、自分にとってなじみのあるかたちを立体として認識しがちです。例えば平行四辺形を見ると、本来は水平に置かれた平行四辺形なのに立ち上がった長方形だととらえてしまうのです。また人は普段、左右の目からの見え方の違いで距離感を認識しています。しかし遠くの景色は左右の目の見え方の差がなくなり、距離感が失われるため、より錯覚による立体感が強まるのです」
羽田空港の案内板やサッカー場の広告は、このような脳のクセを利用したものなのです。
錯視の研究はそれこそ100年も前から、心理学や認知科学の分野で研究が進められてきました。でも杉原先生の専門は数理工学。もともとロボットのパターン認識の研究をしていたといいます。
人間は2次元の絵を見て立体として認識することができますが、それをコンピュータにさせるにはどうすればいいのか。そのためのプログラムを組み、様々な絵を見せ、正しく立体として認識するかどうかを調べていたそうです。
「ある時、絵には描けるけど、現実の立体としては存在しない不可能図形、エッシャーの作品のようなだまし絵を、コンピュータが正しい立体として認識したのです。最初はプログラムの間違いではないかと思いました。でも色々と調べているうちに、不可能図形のなかには、実際につくれるものがあることが分かったのです」
それから杉原先生は、研究の合間に不可能図形の立体化に取り組み始めます。やがて人間の知覚や錯覚に興味を抱き、さまざまな錯視作品をつくるようになります。そのうえで有効なツールとなったのが、数学でした。
「実は平面の絵からつくれる立体は、理論的には無限にあるのです。奥行きの数値は無限に設定できるからです。でもこれまでの経験や先入観に支配される人間の脳は、平面から特定の立体しか思い浮かべることができません。平面の絵からつくられる無限の立体の可能性を想像できないのです。でも数学を使えば、その平面図からつくれる無限の立体を調べ、不可能と思えた図形をつくることもできるのです」
例えば、鏡に映すと四角い物体が、丸く見える作品。これはある視点から四角に見える無限の立体と、ある視点から丸く見える無限の立体の連立方程式を解くことで、つくることができるといいます。
杉原先生はこれまで、さまざまな原理を応用した錯視作品を生み出してきました。世界錯覚コンテストで3回も最優秀賞を受賞しています。
最初の最優秀賞作品は、四方向にのびる滑り台の下にボールを置くと、なぜが坂道をのぼって一番高い真ん中にボールが集まる、というものでした。分かりやすくインパクトのあるこの作品は、ネットでも大きな反響を呼びました。
2回目の受賞作は、格子柄に静止した画像を重ねて移動させることで、その静止画が変形しながらユニークな動きをする、というアート的な作品。フットステップ錯視という原理を応用し、大学院生との共同研究でつくりあげたものだといいます。
最新の2018年のコンテストでは、同じ絵が三つの方向から違った立体として見える、という作品で受賞しました。実物を見ると、普通の絵に旗を立てただけの実にシンプルなものです。しかしこれまでの錯視作品が二つの解釈しか生まないものがほとんどだったなか、一つの絵から三つの異なる解釈が生まれるところが画期的だと、専門家から高く評価されました。
「コンテストに出したい作品はまだまだ沢山あります。錯視作品づくりはとにかく楽しいし、やればやるほど新しい発見があります。また私の作品を通して、数学に興味をもつ人が増えればうれしい限りです」
もともとまったくの好奇心と自分の楽しみのために取り組み始めたという杉原先生の錯視研究。今、その研究や作品は多くの人を喜ばせ、脳の働きの解明、錯覚による事故を防ぐ安心社会の実現につながるものとして、大きな期待が集まっています。