連載
#14 ここは京大吉田寮
京大吉田寮を撮った院生に写真賞 大学と和解後も続く取り壊しの危機
2026年3月の「一時退去」後はどうなる
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#14 ここは京大吉田寮
2026年3月の「一時退去」後はどうなる
1913(大正2)年に開かれ、現存する国内最古の学生寮である京都大学吉田寮。退去をめぐる大学との訴訟は今年8月、和解を迎えました。しかし、寮の建物や寮生の今後は不透明なままです。そんな折に明るいニュースがありました。吉田寮の姿を撮りためた大学院生が若手対象の写真賞を受けました。かつては看護師だった板谷めぐみさん。その人生と、吉田寮への思いについて聞きました。(朝日新聞withnews編集部・川村さくら)
【シンポジウム】「和解成立とその先へ〜吉田寮の今後と大学自治の未来〜」
12月19日午後7時から
京大文学部第3講義室にて/zoom配信あり
吉田寮の「寮費」は月々2500 円。いまも 120 人ほどの学生が暮らしています。
その学生たちの自然体な日常を撮ってきた板谷さん。
写真 30 点からなる作品「京大吉田寮~記憶と想起の結節点~」で日本写真家協会の「名取洋之助写真賞」を受けました。
授賞式でのスピーチで板谷さんはこう話しました。
「和解というとポジティブに聞こえますが、そうではありません。和解後も(大学は寮を)無視し続けていて、対話は行われていません」
「純粋に学問や研究がしたくて寮に住んでいる学生たちが、自分たちも未来の学生も安心して住めるようにしたいと思って、いま奮闘しています」
受賞はジャーナリズムの分野でも吉田寮の活動が認められたことを意味し、板谷さん個人にだけではなく、吉田寮にとっても大きな価値があるといいます。
「報道や世間では『わがままな学生と、それに手を焼く大学・教員』という構図で捉えられることがあります」
板谷さんもこれまで、こうした反応を受けることがたびたびありました。
しかし、実際には大学の「一方的な」姿勢を批判し、吉田寮自治会に賛同するような大学教員や職員も少なくないといいます。
多くの学部・研究科の教員や職員が寮を訪れたり、寮生との交流をもっているそうです。
板谷さんは言います。
「吉田寮をめぐる問題が、単純な対立構造ではないことを知ってほしいです」
板谷さんは大阪の下町出身。かつての職業は看護師でした。
「この国で女性が生きていく上では有利な仕事だと思って」奈良県立医科大で看護を専攻し、看護師免許をとって卒業しました。
しかし、卒業後すぐに看護師として働くことは選びませんでした。
社会の一員となり、よくも悪くも常識にとらわれる前に外の世界を見ておきたいと、1年間を海外で過ごしました。
ケニアとスリランカで医療支援をしたのち、大阪に戻り、救命救急の現場で働きました。
人々が日々亡くなっていく姿を目の当たりにし、「明日死ぬかもしれない」と考えながら後悔なく生きようと考えるようになりました。
病院で3年勤務したのち退職し、友人に連れられて山口県の祝島(いわいしま)へ出かけたときのことでした。
「表に出ないものを引っぱり出して、たたきつけてやりたい。」
ふと見かけた映画のポスターに衝撃を受け、「この人に会わなければいけない」と直感し、写っていた男性に連絡を取りました。
映画は「ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎 90 歳」で、男性とはその福島さん。
たたかう写真家として被爆者の姿や原発建設への反対運動などを撮った福島さんが亡くなる1年半前のことでした。
以降、板谷さんは福島さんの 6畳の自宅で写真の整理などを手伝いながら、それぞれの被写体との物語を聞きました。
いきなりカメラを向けることはせず、半年でも通い詰めてお互いの人間性を知り信頼関係を築いた先に撮影行為がある――。
そんな福島さんの手法を学びました。
学生時代には大阪空襲について調べるなど、もとから戦争への関心が高かった板谷さん。
沖縄県・辺野古の米軍基地建設運動や米軍の退役軍人、被爆者などの姿を撮影し、話を聞く生活が始まりました。
人のトラウマを聞きつづけることがつらくなった時期もありました。
そんなときは渡米してネイティブアメリカンたちと過ごしました。
アメリカ社会から弾圧されながらも祈りや社会への訴えをやめなかった彼らの姿を見て、「絶望の中に希望を見つけるようなバランス感覚をつかめた」といいます。
人の中にある戦争についての記憶を考えるうちに、文化人類学の分野に出会いました。
2024年に京大の大学院人間・環境学研究科に入学して戦争記憶をテーマに研究を始め、その頃から吉田寮の撮影を続けてきました。
権力ある大学という組織が学生を訴えるという異様な状況で、若い学生たちが冷静に対話を求めて働きかけ続けられるのはなぜ?
彼らは何を思っている?いま日本の大学で何が起きている?
そんな疑問を出発点に吉田寮でカメラを持つようになりました。
長い歴史のある吉田寮では、かつて学徒出陣で戦死した寮生もいました。
満州で細菌兵器に関連する人体実験などをした731部隊のトップ石井四郎も暮らしていました。寮生はいま、学問の戦争責任の勉強会や研究会を開催するなどをしています。
112年もの間、たくさんの人々のさまざまな記憶が蓄積されてきたのが吉田寮です。
過去の寮生たちの存在を感じながら、板谷さんは必死に寮を守りつつ日々をのびのびと生きている寮生たちの姿を撮影しています。
吉田寮は「自治寮」です。土地や建物は大学が所有していますが、運営は大学ではなく、住んでいる学生たちが行っています。
吉田寮の自治会は大学と交渉しながら寮を長年維持してきました。
しかし京大は 2019年、立ち退きを求めて一部寮生に対して訴訟を提起。2025 年 8 月に大阪高裁で和解が成立しました。
被告の寮生は今年度中に退去し、耐震工事後に再入居できるという内容ですが、工事の詳細には触れられていません。
現棟が取り壊されたり被告以外の新棟の寮生も追い出されたりする可能性もあり、寮自治会は現在話し合いを求めていますが、大学は応じていないといいます。
吉田寮の問題は大学だけでなく社会全体の問題の「一角」だと板谷さんはいいます。
「国の大学への助成金は日々削られて、防衛装備費は増加を続けています。吉田寮の問題は京大と寮の二者の問題ではなく、国全体の大きな問題の氷山の一角です」
学生も大学も、国策の流れに絡みとられているという板谷さん。その構造はアジア・太平洋戦争時と似ていると指摘します。
「こんな情勢を、戦死していった元寮生たちが見たらどう思うでしょうか」
「大学は教員や学生たちだけのものではありません。研究機関として技術や理念などを生み出し、社会に貢献してきました」
かつて吉田寮で暮らした赤崎勇さんは青色発光ダイオードの研究でノーベル賞を受けました。
同じくノーベル賞を受けた山中伸弥教授のiPS細胞の研究も京大で続けられています。
「大学の問題は学生の問題だと人ごとに捉えず、自分の生活にも関わるものだと知って、ぜひ関心を持ってほしい」
【吉田寮】
1913 年建築(築112 年)の「現棟」と2015年建築(築10年)の「新棟」があり、現棟は日本建築学会関西支部や建築史学会が保存要望書を出すほど、建築としての価値が認められている。過去の調査では補修すれば住み続けられるとの結論が出て、大学は「補修の実現に向けて協議を続ける」と文書で明言していた。
【京大との訴訟】
2017年、京大は自治会との交渉を打ち切り、寮生たちに現棟からの退去を通告。2019年には一部の寮生に対して訴訟を起こしたが、京都地裁は通告前から住んでいる寮生の居住を認めた。認められなかった寮生と大学が控訴し、2025年8月に大阪高裁で和解が成立した。
【「名取洋之助写真賞」受賞作品展】
(東京会場)
2026年1月16~22日
富士フイルムフォトサロン東京にて
(大阪会場)
2026年1月30日~2月5日
富士フイルムフォトサロン大阪にて
【連載「こちら京大吉田寮」】
京都大学の吉田寮は1913(大正2)年完成で国内最古の現役学生寮。話し合いを基本にした自治によって学生たちが運営していて、今も100人ほどが暮らしています。どんな学生が、どんな思いで、どんな時間を過ごしているのか。その一端をのぞいてみます。
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