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映画「宝島」に登場する沖縄の「戦果アギヤー」 経験者に話を聞いた
宮森小への米軍機墜落事故やコザ暴動も目の当たりに

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宮森小への米軍機墜落事故やコザ暴動も目の当たりに
戦後の沖縄を舞台とした映画「宝島」が公開中です。妻夫木聡さんらが米軍基地から物資などを盗む「戦果アギヤー」を演じています。映画を見たあと、戦果アギヤーが実在したことを知りました。どんな人たちがどんなものを「戦果」としていたのかが気になり、実際に経験した人に話を聞きました。(朝日新聞withnews編集部・川村さくら)
米軍基地から食材などをとってくる「戦果アギヤー」は、映画の公式サイトでは「戦果をあげる者」と解説されています。
作品の中では、妻夫木聡さんや永山瑛太さん、窪田正孝さんらが演じる「戦果アギヤー」が、日が暮れたあとの米軍基地に忍び込み、食料品などを盗んでいく様子が描かれています。
戦果アギヤーの経験を語ってくれたのは、国頭村の漁師・山城善勝さん(81)です。
10代後半のころ、米軍基地のレストランで調理の仕事をしていました。
100人ほどが一斉に食事をとれる巨大なレストラン。冷蔵庫にはたくさんの食材が詰め込まれていました。
「当時の沖縄は、ようやく白米が手に入るようになってきたころで、ずっといもが主食だったんだよ。アメリカの食べ物はなんでもめずらしかったねえ」
退勤する時に、オレンジ、バナナ、リンゴ、コーヒー、卵などあらゆる食材を車に乗せて持ち出し、市場で売ってお金にしました。
「バナナっていったって1,2『本』じゃなくて『房』だぞ」と話してくれる山城さん。
「特にベーコンは高く売れたね。まな板みたいなでっかいかたまりだったんだよ。1枚売ると1カ月の給料分くらいにはなった」
「もちろん泥棒している自覚はあるんだけど、それでも戦果は『手柄』だって思ってたんだよな」
「戦って得られた成果」という意味がある「戦果」という言葉。
山城さんの話からは、当時沖縄を占領し、自分たちより優位に立っていた米軍から自力で成果を得たことを誇りに思っているのが感じられました。
時には基地を出る前に米兵に見つかることもありました。市場で売れた額の一部を後日分け前として渡すことと引き換えに、見張りとして協力してくれる人もいたそうです。
「みんな、自分だってお金が欲しいんだよ」と山城さん。
レストランで働いている他の住民も同じように食材を持ち出し、基地内で大工として働く人は資材や工具を持ち出すなど、それぞれが「戦果」を挙げていたと言います。
山城さんは映画「宝島」でも描かれている、沖縄の様々な史実を目の前で経験してきました。
1944年10月4日に現在のうるま市石川で生まれました。
生後6日で「10・10空襲」を経験。山城さんを連れた両親はガマに避難しましたが、「子どもを黙らせろ」と日本兵に脅され、ガマを出てやがて米軍に投降しました。
《「10・10空襲」とは…1944年10月10日にあった、沖縄本島に米軍による初めての大空襲。米軍から日本への初めての本格的無差別爆撃でもあり、那覇市街地の約9割が焼失、軍人と民間人あわせて668人が亡くなった》
1955年には、幼稚園児だった女の子が米兵に性的暴行され、そして殺害された「由美子ちゃん事件」が近所で起きました。
由美子ちゃんは、山城さんにとって弟同然だったいとこと大の仲良しだった女の子でした。
1959年、石川の宮森小学校に米軍機が墜落したときには、近くの宮森中学校に通う3年生でした。
当時は「落ちこぼれで算数の試験が何もわからなかった」という山城さん。
試験を早々にあきらめて回答用紙を先生に渡し、他の「おちこぼれ」の友人たちと廊下に出ていました。
すると、向こうから飛行機がこちらに突っ込んでくるのが見えたそうです。
「パラシュートで脱出する米兵が見えたって言ってた仲間もいたよ」
自分たちめがけて飛んでくるように見えた飛行機は、わずかに中学校を越えて小学校に墜落しました。
この事故は、17人もの死者、200人以上の重軽傷者を出す大惨事となりました。
山城さんたちは廊下で飛行機を目撃したあと、すぐに走って宮森小に向かいました。
「首が切れて体だけになって死んでいる人がいたね。こんな悲惨なことはないって思ったね」
そして、映画でも手厚く描かれている1970年の「コザ暴動」も経験しています。
1970年12月20日、アメリカ人が運転する車両が道路横断中の男性にぶつかって軽傷を負わせる事故が起きました。
その9日前には、飲酒運転中の事故で主婦の命を奪った米兵に無罪が言い渡されていました。
占領下の事故処理へ不信感を高めていた住民たちは、現場に到着したMP(アメリカの憲兵隊)たちを取り囲みます。
MPの威嚇射撃で住民らの怒りは爆発し、群衆5000人が米軍などの車約80台や米軍嘉手納基地の施設を焼き払いました。88人が負傷し、21人が逮捕されました。
山城さんはそのころタクシー運転手として働いていました。
車内で寝ていたところ、コザから帰ってきたところだという同僚が窓をたたき、「『外人』の車燃やしが始まってるぞ」と教えてくれました。
コザのどのあたりなのかを聞いて車をとばして向かいました。燃やされないようしっかり建物の裏に車を止めてから、暴動に加わったといいます。
「みんなで車をひっくり返してガソリンかけて燃やしたよ。でも、白人の車だけ。手はあげなかった」
そう言った山城さんは、「こんなに楽しい『遊び』はないと思ったね」とも振り返ります。
過去の朝日新聞の記事では、暴動の様子を見た当時の大山朝常・コザ市長が「沖縄の怨念が燃えている」とうめいたエピソードが紹介されています。
山城さんにとっても、由美子ちゃん事件や宮森小の事故をはじめとした、戦後の「占領」下で強いられ続けた苦痛への怒りが爆発した夜でした。
今では県外などからお客さんが来ると、毎回コザ暴動の現場を案内するといいます。
様々な職を経験したのち、「海人(うみんちゅ)」として漁を続けながら、辺野古への米軍基地移設の反対運動にも長く深く関わってきました。
周囲から「勝ちゃん」と慕われる山城さんの人生は「勝ちゃん 沖縄の戦後」(藤本幸久/影山あさ子監督)として2024年にドキュメンタリー映画にもなりました。
勝ちゃんは言います。
「基地はなくなっていないし、性暴力の事件は起きているし、沖縄はね、今も何も変わってないんだよ」
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