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商社に入ったインカレバスケMVP 32歳Wリーグデビューまでの道のり
桂葵さんインタビュー【バスケ編】
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桂葵さんインタビュー【バスケ編】
バスケのエリート街道を歩みつつ、大学卒業後は総合商社への就職の道を選んだ桂葵さん。退社を経て32歳で女子バスケWリーグでのデビューを果たすなど、異色のキャリアを歩んでいます。そんな桂さんのこれまでのバスケ人生を振り返ります。(朝日新聞withnews編集部・川村さくら)
◇桂葵(かつら・あおい)さん◇
1992年生まれ。身長182センチ。父の転勤にともなって福岡、千葉、ドイツ、仙台、愛知、東京で育つ。小4でバスケを始め、中学卒業後は故・井上眞一コーチの誘いをきっかけに桜花学園へ進む。早稲田大で4年次にはインカレで優勝し、MVPも受賞。卒業後は三菱商事で勤務したのち、退社して3x3チーム「ZOOS」を設立。2024年にはWリーグ入りし、現在はトヨタ紡織サンシャインラビッツに所属。ポジションはパワーフォワード。
桂さんは1992年に福岡で生まれ、父の転勤にともなって引っ越しの多い子ども時代を過ごしました。
「転校は当たり前だと思っていたので、しんどいことはなかったです。でも大人になってから振り返ると、いろんな経験をさせてもらったなとは思います」
小学校1年から4年まで過ごしたドイツでは、文化や宗教も越えていろいろな人たちと過ごしたといいます。
帰国後は仙台へ。両親も元々バスケをしていたバスケ一家で、小さい頃からよくバスケをして遊んでいました。
先に兄がミニバスに通い出し、自身もあとを追って始めました。
東京の公立校で過ごした中学時代には、3年間で身長が20センチ伸びました。
バスケでは、背が低い選手がボールを回したり高い選手がシュート後のリバウンドを取りに行ったりと身長に応じてポジションごとの役割があります。
桂さんは身長の伸びによってポジションが変化。「背が高い割に(ドリブル、パス、シュートなど)いろいろできるねって周りから評価されていたのかなと思います」
ただ、教育熱心な家庭で、高校受験を見据えて塾にも通い、バスケ中心の高校生活を送ることは考えていませんでした。
そんななか、桂さんの中学を訪れたのがバスケの名門高・桜花学園(愛知)の井上眞一コーチでした。
井上さんは桜花学園を70回以上の全国制覇に導き、2024年に78歳で逝去した日本バスケ界の名将です。
しかし桂さんは、学校までやってきた井上さんからのスカウトを断ります。
顧問の先生から「せめて桜花の練習に参加するだけでもしてくれ」と頼まれ、しょうがなく練習に参加しに行きました。
当時の3年生には高田真希さん(現デンソーアイリス)、1年生に渡嘉敷来夢(とかしきらむ)さん(現アイシンウィングス)がいました。
「先輩たちが、ただただかっこよかった。雰囲気なのかな、大人に見えてスターって感じで。この先輩たちとバスケがしたいと思いました」
「桜花に行きたいと感じたことに自分自身びっくりしました。練習に参加した日に親にも『びっくりすると思うけど…』と伝えたら『葵が決めたことだから応援するよ』と言ってもらいました」
ただ、勉強との両立を続けることは家庭のルールで、元々進学を目指していた学校を含む都内の私立2校に合格。
その上で、勉強特待で桜花に進学しました。
桜花での3年間は「めちゃくちゃしんどかった」と振り返ります。
「みんな強いチームから来ている人たちばっかりで、公立でやっていた私が知っているバスケと全然違った。体力的にも(レベルが)全然違っていました」
「一番しんどかったのは、自分が中心選手の1人だった3年生のときにチームを勝たせられなかったことでした」
高校バスケには3大タイトル(インターハイ・国体・ウインターカップ)があります。
桂さんが1、2年生のときには桜花は6大会中5大会で優勝しましたが、3年生のときは最高でベスト8という結果でした。
「自信をなくして、『自分がバスケをやる資格なんてない。もうバスケを辞めよう』と思っていました。でも、高校で経験した悔しさや感情、あの3年間を絶対に無駄にしないというモチベーションは強くありました」
「3年生を送る会で自分が言ったことを覚えています。『自分がここに来たことは正解だったのか分からない。でもこの先、桜花に来てよかったって思える生き方をしていきたい』って」
早稲田大からスポーツ推薦の話も持ちかけられましたが、それではスポーツ科学部にしか進めず部活を途中でやめることもできません。
そのため、スポーツ推薦は断り、自己推薦で社会科学部に合格しました。
「高校に入る前から、早稲田に行きたいってことは井上先生にも伝えていました。一般入試で臨むつもりだったので、ウインター(カップ)とか行かずに勉強してもいいよっていうのは入学時に約束してもらっていました」
「先生はバスケを続けるか『お前が好きなようにしな』って感じでした。私がそういうやつだって分かってくれていたので」
バスケをやめることは決めていましたが、代表活動に呼ばれると断ることはできず、大学入学前の春休みには年代別代表の合宿に参加しました。
そのヘッドコーチが、日本人初のWNBA(NBAの女子版リーグ)選手であり、現在はWリーグの東京羽田ヴィッキーズでヘッドコーチを務める萩原美樹子さんでした。
早稲田大女子バスケ部のヘッドコーチも務めていた萩原さんからもらった言葉が、桂さんをバスケの世界に引き留めました。
「U19の世界選手権への遠征先で、萩原さんと深く話すことがあって。『私が必ずあなたの花を咲かせる』と言ってもらって、もう一度バスケがんばろうという気持ちになりました」
大学生活は「めちゃくちゃ楽しかった」という桂さん。
「自由があって、自立と自律が求められる文化が好きだったし、萩原さんのバスケもすごくおもしろかった。部活以外の友人との出会いも含めて充実した4年間を過ごせました」
しかし、卒業後にバスケを続けることは考えませんでした。
「『バスケを続けても、選手としての成長はあっても価値観がぶっ壊れるような出会いはないだろう。人間としての幅はこれ以上は広がらないだろう』と考えて、就職することは決めていました」
就活解禁の4月に代表合宿が重なったときには、午前に面接を受けて午後に合宿に合流する日もあったそうです。
「合宿に参加するようなメンバーは大体バスケの道に進むなか、私はNTC(ナショナルトレーニングセンター)にリクルートスーツで行きました」
「高校時代からずっと成績はよかったし、勉強や英語ができて社会に興味があるっていうキャラ立ちがバスケ界ではあったから、みんな『葵ってそういうやつだよね』と特に驚いてはいなかったと思います」
70人以上へのOB・OG訪問といった就活を経て、総合商社など複数の企業からも内定をもらい、三菱商事に就職することに決めました。
桜花の恩師・井上先生は就職を「すごく喜んでくれた」といいます。
「『日本代表選手はたくさん輩出してきたけど、三菱商事に行く教え子は初めてだ』って言ってくれました」
内定後は残り8カ月のバスケ人生をやりきろうと全力を注ぎ、11月のインカレでは優勝。個人としてもMVPを獲得しました。
優勝後、大田区立総合体育館のサブアリーナの階段で、自分にバスケを続けさせてくれた萩原さんに伝えた言葉を今も覚えているそうです。
「これで終えてしまうことが惜しいくらいにバスケが大好きで、もっと続けてみたい気持ちもある。でも、バスケが大好きな気持ちでバスケを終えますっていうことを伝えました」
その頃の桂さんは、またバスケの世界に戻ってきて、Wリーグでデビューするとは思ってもいませんでした。
「異色のキャリア」と評される桂さんですが、「完璧な選択はないって思えるからこそ、選択するときに怖さがない」と話します。
「やりたいこととかわくわくするほう、がんばりたいことを優先する。先のことは考えない。明日人生が終わってしまうとしたら?って考えて選択しています」
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