連載
#11 #半田カメラの巨大物巡礼
「巨大仏」は造った後の方が大変…それでも生まれる観音の役割
時が経ち壊れても、修復される存在に
「大きな物」を愛し、撮影し続けている写真家・半田カメラさん。仏像は、とりわけ思い入れのある被写体です。世間に忘れ去られ、悲しい末路をたどりつつあるものから、新たに誕生し人々に喜ばれるものまで、その境遇は実に様々。一体、何が運命を分けるのでしょうか? これまで出会った中でも、特に印象に残っている2体の造立(ぞうりゅう)経緯を振り返りながら、半田さんに考えをつづってもらいました。
兵庫県淡路市に立つ巨大な観音像「淡路島世界平和大観音」。今まさに解体されている、この観音さまの姿を眼に焼き付けるべく、昨年12月末、観音像のある淡路島に行ってきました。
出迎えてくれたのは、体全体をすっぽり覆う足場の中から、頭部と右の掌(てのひら)だけが見える状態の観音さまでした。なす術(すべ)なく、ただ解体を待つだけの姿は、まるで「よく来たね。さようなら」と私に最後の挨拶(あいさつ)をしてくださっているように見えました。
淡路島世界平和大観音は1982(昭和57)年、地元出身の実業家によって建てられた、高さ100メートルの観音像です。内部に展示施設などを備え、当初は1日2000人もの観光客でにぎわいました。
しかし所有者とその家族が亡くなった後、2006(平成18)年に閉鎖され、廃墟(はいきょ)同然の状態に。そして昨年とうとう解体作業がはじまったのです。
私が初めて訪れたときは、既に施設は閉館していて、内部には入れませんでした。ですが何とも言えない可愛らしい外観に癒され、私はその後、観音さまに会うため何度か淡路島に行っています。
私がそうであったように、観音さまは観光客を呼び、元々は地元の人々にとって、ありがたい存在だったはずです。それが今や「負の遺産」の代名詞のように語られています。
「どうしたら、このような結末を避けられたのだろう……」。観音像解体の報道を目にするたび、やり切れない思いでした。
そんな私の独り言のようなつぶやきに、ひとつの答えを示してくださった方がいます。千葉県流山市にある、円東寺(えんとうじ)の増田俊康(ますだ・しゅんこう)住職です。
円東寺には今年3月6日、新しい観音さまが誕生しました。樹齢400年のイチョウの巨木を、根のついたまま彫って造った、高さ約5メートルの立木十一面観音菩薩(たちきじゅういちめんかんのんぼさつ)、その名も「流山立木観音」です。
この立木観音の、ちょっとした奇跡のような造立の経緯を、私はこれまで追いかけてきました。
増田住職が円東寺の住職となったのは2004(平成16)年のこと。間もなく、区画整理事業が始まり、お寺の本堂裏手にも大きな道路が造られることになりました。敷地内にある高さ約30メートルのイチョウの木は道路にかかるため、完全伐採が決定していました。
ところがその後、計画変更で道路幅が縮小され、お寺の敷地からはみ出た枝を切るだけで済み、幹は残されることになったのです。
「400年もの間、流山を見守ってきたイチョウの木が、この場に残ることになったのは奇跡なのではないか」
増田住職が、残った木を何かに活かせないかと考え始めた矢先の2011年、東日本大震災が起こりました。
当時、円東寺で週に一度開かれていた、一般向けの仏像彫刻教室で講師をしていた仏像彫刻師の畠山誠之(はたけやま・せいし)さんは、震災で被害を受けた岩手県の出身でした。
「この木に東日本大震災の慰霊の仏さまを彫ってはどうか」。津波で被災し、亡くなった人々を弔いたいと思っていた畠山さんが、増田住職にそう提案しました。こうして、二人の思いが重なります。
イチョウの木に彫るのは、慈悲の仏さまである観音さま。その中でも「2011年3月11日を忘れない」という意味も込め、頭上に11の顔を持つ十一面観音に決まります。そして震災から2年後の2013年、イチョウの木にノミが入れられました。
それから畠山さんは時間をつくって円東寺に来て、お弟子さんとともにコツコツと制作を続けます。途中、区画整理事業による工事で制作が中断されたこともあり、8年の歳月を経て完成した観音さまは、とても優しいお顔をしていました。
その後、岩手県で製材業を営む畠山さんの友人より送られた木材に加え、檀家やクラウドファンディング経由で募った寄付金を使い、観音堂を建設。そして今年3月6日、開眼落慶法要が行われたのです。
根がついたままの自然の木に掘り出された仏像は「立木仏(たちきぶつ)」と呼ばれます。立木仏は日本古来の霊木信仰を元として8世紀頃にはじまったと言われ、鎌倉〜室町時代に造られたものが貴重な文化財として今も多く残されています。ただ全体からみて、その数は決して多くはありません。
流山立木観音には立木仏であることに加えもうひとつの特徴があります。木の根っこ部分に穴を空け、トンネルを掘り、その穴を通る「胎内巡り」をできるようにしたのです。
これは畠山さんのアイディアで、チェーンソーやドリル、スコップなどを使い、約1年かけて彫り進められました。この穴を通ることで参拝者は実に直接的な形で、観音さまと縁を結ぶことができるのです。
通常、お寺における仏像参拝は、仏さまと距離のある場所から手を合わせるものです。手を合わせる以外に、何か直接的なアクションを起こす仕組みがあると、お参りしたという実感をより強く持つことができる、と増田住職は言います。
この流山立木観音の胎内巡りは、いつでも出来るというわけではありません。毎年、東日本大震災の起こった3月11日にのみ御開帳し、胎内巡りをできるようにするそうです。
ここに、冒頭に書いた私のつぶやきに対する増田住職の答えがありました。
どんなに完璧なものを造ったとしても、永遠に壊れないものはありません。仏像もそれは同じ。古くに造られ今も残っているものは修復されてきたのです。皆の想(おも)いがずっと残るものであれば、いつか壊れても必ず修復されるでしょう。
合掌などで仏さまを拝むことを仏教では「礼拝(らいはい)」と言います。礼拝の対象として、長きにわたり震災の悲劇に思いをはせるきっかけになって欲しい。そんな願いから、流山立木観音の御開帳は年に一度、3月11日に限られたのです。皆の想いがずっと残る、人々に愛され、受け継がれていく仏さまとなるために。
翻って、淡路島の観音さまは、観光振興の役割を強く負わされた仏像でした。一方で、仏さまの姿をしている以上、人は信仰的なものとして捉えてしまいます。ですからその解体は、普通のビルがなくなることと、意味合いが異なるのです。
淡路島世界平和大観音と流山立木観音は全く異なる観音像であり、これらを並べて語ることはできません。ただ、同じ時期に片や解体、片や造立と、対照的な経過をたどったため、私の中で流山立木観音を応援する気持ちが強くなっていきました。
仏像になくてはならない「礼拝」という視点。そして、造ることよりも、造ってからの方が大変だということも、忘れてはいけないと思います。コンクリートであっても、木造であっても、巨大な仏像の維持には相当な費用と労力がかかるのです。
流山立木観音は礼拝の対象として、地域の人々の想いがずっと残るものであって欲しい。時が経っても震災の悲劇に思いをはせられるものであって欲しい。そしていつか壊れるときが来ても修復される存在になっていて欲しいと思います。
流山立木観音の開眼落慶法要当日、たくさんの地元住民が集まっているのを見て、そうなっていくのではないかと思えました。
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