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ラサール石井が語る〝舞台人〟志村けん 演出家として付き添った14年

「実は降りようと思ってサシ飲みに…」

志村けんさんとの出会いは六本木のカラオケパブだったというラサール石井さん=スギゾー撮影
志村けんさんとの出会いは六本木のカラオケパブだったというラサール石井さん=スギゾー撮影

目次

ラサール石井さん(65)は、3月に亡くなった志村けんさんが2006年から続けていた舞台『志村魂』の全14公演で脚本・総合演出を担当していた。『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』(TBS系)と『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)では視聴率を争うライバル関係にあったが、『志村魂』という接点から2人は急接近することになる。異色のキャスティングで話題となった第1回公演、その中で見た志村さんの素顔。演出を降りようと決意して誘ったサシ飲み。今だからこそ語れる『志村魂』の舞台裏ついて聞いた。(ライター・鈴木旭)

 

ラサール石井(らさーるいしい)
1955年10月19日生まれ、大阪府出身。芸名の由来は出身高校名。1980年にお笑いトリオ「コント赤信号」のメンバーとしてデビュー。相方は渡辺正行と小宮孝泰。高学歴を生かしクイズ番組に数多く出演しており、インテリ芸能人として知られている。バラエティー番組の司会、役者、アニメの声優に加えて、舞台の脚本家・演出家としても活躍中。2016年、ミュージカル「HEADS UP!」で第23回読売演劇大賞優秀演出家賞を受賞。石井光三オフィス所属。
 

出会いは六本木のカラオケパブ

――最初に志村さんとお会いになったのはいつごろですか?

六本木交差点に程近いビルの地下にあった「六本木 弐阡壱年」っていうカラオケパブです。そこは、麻布十番MAHARAJAを手掛けた成田勝さんの弟さん(恭教さん)のお店で。芸能人の方たちがたくさんくるところだったんですよ。今は場所も上に移って、名前も変わってますけどね。

僕も毎晩のように通う中で、志村さんにお会いしてちょっと一緒に飲んだんですよ。お互いに「お笑い大変だよね」みたいな話をしたと思います。志村さんって、竜ちゃん(ダチョウ倶楽部・上島竜兵さん)みたいな感じで、時期ごとに仲よく飲む相手が決まっていて。

その最初が(片岡)鶴太郎さん。そこから田代(まさし)さんに移っていくんだけど、その端境期(はざかいき)ぐらいだったんじゃないですかね。『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』と『オレたちひょうきん族』が視聴率で競ってた頃か、そのちょっと前くらいだと思います。


――石井さんは『オレたちひょうきん族』に出演されていて、当時はある意味でライバル関係にあったと思います。ドリフターズや志村さんのコントについてはどんな印象を持たれていましたか?

めちゃくちゃ面白いと思ってました。学生時代から『8時だョ!全員集合』も全部見てましたから。まだコント赤信号がストリップ劇場で活動していた頃、『ドリフ大爆笑』の“もしもシリーズ”で志村さんが医者のお爺さんに扮したコントがあって、「いかりや(長介)さんの足に注射打っちゃうのがめっちゃ面白かった」とかってメンバーと盛り上がってましたね。

1996年9月、下北沢の駅前劇場で=朝日新聞
1996年9月、下北沢の駅前劇場で=朝日新聞

『志村魂』の演出家になった経緯

――これまでに志村さんと番組で共演したことはありましたか?

一度もないですね。『志村魂』にたずさわる中で、一度シャレっぽく「今度、僕も出ようかなぁ」って志村さんに言ってみたんだけど、笑ってごまかされたから僕は出ちゃダメなんだなと思って(苦笑)。そりゃ志村さんとコントやってみたいじゃないですか。息がわかってきた2年目ぐらいに、「ちょっと僕が出るのもアリかな」なんて思ったんだけど、志村さん的には違ったんでしょうね。

――最後まで共演はかなわなかったと。そもそも、どういう経緯で『志村魂』にかかわることになったのでしょうか?

今はもうやめちゃいましたけど、8年目まで公演をプロデュースしていた「アトリエ・ダンカン」って会社があったんですね。そこの社長の池田(道彦)さんは、ナベプロ(渡辺プロダクション)のマネジャーをやられた後に独立した方で。志村さんのいたイザワオフィスもナベプロ系だから、前から知っている仲なわけですよ。そこで、「池田ちゃん、(『志村魂』の)プロデューサーやってくれない?」ということになったと。

その池田さんが「お笑い全般の知見があって、なおかつ今の感覚で演出できるのは石井さんだ」と志村さんに伝えてくれて、こちらに話が回ってきたという流れです。僕は「そりゃもうやります」と二つ返事ですよ。僕は僕で、それ以前にけっこう池田さんと組んでやってたから、その影響も大きいでしょうね。

「これは面白いもんやらなきゃダメだ」

――『志村魂』に参加するにあたって、志村さんから「こんな舞台にしたい」というようなお話はありましたか?

志村さんってシャイだから、ほとんどそういうこと言わないんですよ。ただ、「新橋演舞場でやりたい」ということと、「バカ殿様をやって、コントを8本くらいやって、津軽三味線をやって、最後にお客さんを泣かせる松竹新喜劇をやる」という構成は決まっていたんです。志村さんは座長公演をやるのが夢だったんですよ。


――最初から「藤山寛美さんの演目をやりたい」という思いが強かったのでしょうか?

そうです。それがやりたくて始めた舞台ですから。藤山寛美さんをすごくリスペクトしていたし、あこがれていらっしゃったんだと思います。

志村さんって大阪っぽいものはあまりお好きじゃないけど、寛美さんがやっている「わざと吹かす」っていうのは忠実にまねしてましたね。劇中で、寛美さんが伴心平さんを吹かせるシーンがあるんですけど、何度見ても必ず同じところで吹かしてる。つまり、伴さんはわざとやってるんです。でも、お客さんからすると「今日だけ見られた」と感じる。そこに志村さんは共鳴したんでしょうね。

それから、ちょっと阿呆を見せるところも似てる。バカ殿様もたぶん、寛美さんの阿呆演技からきてるんじゃないかな。もちろん寛美さんとはまた違う阿呆なんだけど、そこで笑わせるって意味でね。ご自分のキャラと重なる部分もあったから、舞台をやるに至ったんだろうと思いますよ。

――志村さんの中で、松竹新喜劇1本で舞台をやろうという思いはなかったんですかね?

まさにそれが新橋演舞場の案だったんです。「一幕、二幕というような芝居じゃないと困る。バラエティーショーみたいなものはうちではやれない」と言われてしまったことで決裂しちゃった。志村さんは「子どもにも、お爺ちゃんお婆ちゃんにも笑ってほしい。だから、バカ殿様はやるんだ」って考えだったんですね。その直後に僕に話が回ってきたんです。

メインのキャストはダチョウ倶楽部、爺役に地井(武男)さん。あとは僕が選んでいいってことだったので、僕としては「これは面白いもんやらなきゃダメだ」と気負いこんじゃって。志村さんのお弟子さんを含めつつ、ちょっと演劇畑でも話題になるようなことがやりたいと思ったんですよ。

それで選んだのが、池田成志と、イケテツ(池田鉄洋)と、清水宏っていう、志村さんとまったく合いそうもない3人。でも、志村さんは「いいよ」と受け入れてくれてね。台本についても、志村さんのコントを長年書いてる朝長(浩之)さんに加えて、SET(劇団「スーパーエキセントリックシアター」)で一時期書いてた妹尾匡夫さん、劇団「ナイロン100℃」を主宰するケラ(リーノ・サンドロヴィッチ)っていう演劇畑の人間に声を掛けたんです。

初顔合わせで「わかってんのか、このハゲ!」

――思い切った人選は、石井さんの提案だったんですね。

「このコラボは面白いぞ!」と思ってやってみたんだけど、うまくいきませんでしたね。やっぱり志村さんって「誰が演っても面白い」というより、「自分の世界」を大切にしたい人なんです。だから、ケラの台本とかはまったく合わないし、妹尾さんの台本も合わない。それで僕は、ケラが書いた台本のコントには志村さんを出さないと決めて、その間に休んでもらうことにしたんです。

実際、志村さんを見にきたお客さんにはケラの台本がウケないんですよ(苦笑)、あまりにもシュールすぎて。志村さんもそれを見て「納得いかん。自分の出る前があんなに沈んでちゃ困る」とこぼしてね。妹尾さんの台本についても「リアリティーがない」ってことで、志村さんが酔っぱらってるって設定を加えたんだけど、ウケがイマイチで。「オレが酔っぱらって出てきて、あんなにウケないことはない」と不満げだったのを覚えてます。

1年目で失敗したとわかって、これは軌道修正しなきゃダメだと。それで翌年からは、朝長さんだけにお願いすることになったんです。やっぱり僕が意気込みすぎたんですよ。演劇的なシュールな笑いの中に志村さんを放り込もうとしたんだけど、相容れないものなんだってことを身に染みて感じましたね。


――作家さんと同じように、役者さんも志村さんとの相性が大きそうですね。

僕はSETの野添(義弘)さんを絶対に入れたかったから、なんとか調整してもらって3年目から出てもらいました。そしたら志村さんがえらい気に入っちゃって、野添さんを手放さなくなったんです。

バカ殿様ってお風呂のシーンに転換する間、忍者の寸劇があるんです。その忍者を野添さんがやるんだけど、めちゃくちゃ面白い。野添さんってお客さんからしたら初めての人なのに、出てきた瞬間からドカーンッとウケるんです。

その間、志村さんは裸の状態でお風呂に入って待ってるんだけど、けっこう長くやっても一切文句を言わなかった。普通だったら絶対に「ここ長いから縮めろ」って言うはずなんですよ。だから、よっぽど実力を認めてたんだと思います。

――認めた相手には文句を言わないというのが志村さんらしいですね。

同じ役者で言うと、東京ヴォードヴィルショー出身の坂本あきらさんも気に入られてました。ただ、それにはちょっと逸話があるんです。

一番最初の顔合わせで飲んだ後、カラオケができるワンルームに移動したんですけど、そこで泥酔した坂本さんが「いやぁ志村さん、本当に気分がいい。ラサールは本当にいい演出家ですから。ラサールをよろしく」なんて志村さんに絡むようになって。面白いからってことで、「坂本さんが歌おうとすると志村さんが歌う」っていうイジりをやり出したんですね。

坂本さんの「あれ? 変だなぁ」なんてリアクションで面白がってたんだけど、しばらくしたら、だんだん志村さんに近づいていって。同じように「ラサールをよろしく……」と絡み始めたと思ったら、「わかってんのか、このハゲ!」と声を上げて志村さんの頭を叩いたんです。今日初めて会ったのに。それで僕が、「坂本さんなにやってんの! もう帰りましょ」とか言ってお開きにしたんだけど、内心では「これはもうダメだ」と思って。

翌日、坂本さんに電話したら「僕、なにかやったかなぁ」なんて言ってるの。「やったどころじゃないですよ! これで降ろされてもしょうがないですからね」って切ったんだけど、予想に反して志村さんが気に入っちゃった(笑)。そんなハプニングもありながら、だんだん座組が決まっていったんですよね。

「うん、大丈夫」って言いながら大丈夫じゃない

――志村さんと言えばスタジオコントでも演出にこだわる方として知られていますが、総合演出を担当するにあたってのプレッシャーやぶつかり合いの心配はなかったですか?

志村さんは基本的に最後まで僕に敬語だったし、ぶつかり合いどころか「なかなか意見を言ってもらえない」っていう難しさがありました。公演がスタートして中盤に差し掛かってから、酔った時に「あそこがなぁ……」ってなるんです。しかも、僕は家に帰っていてそこにはいない。

(乾き亭)げそ太郎っていう志村さんの弟子から、「石井さん、今芝居の話してますから、きたほうがいいですよ」と連絡がきて馳せ参じるって感じでした。そこで、「あそこがちょっとねぇ」なんて言われたら、「はい、変えます」っていうね。稽古の時に言ってくれたらなって思うんだけど、ためちゃう人なんですよ。

僕が「こうしたいんですけど、どうでしょう?」って伝えると、その場では「あ、はい」って答える。でも、本当は違ってたりするんです。最初はわからなかったけど、徐々に理解していった感じですね。

――どのあたりで、そんな志村さんの性格に気付いたんですか?

1年目に地方公演の名古屋で成志たちと飲んでたら、「ちょっときてくれ」と電話が掛かってきたんです。いざ志村さんのところに行ったら、「(ケラさんの)あのコントを切りたい」と言われて。「すみません、もうちょっと待ってください。ケラの手前もあるし、出番がなくなる役者もいるし。どうしてもこれだけはやらせてください」って説得して、なんとか予定通りやる方向でおさめたんです。

その時に、「普段は言わないけど納得してないことがあるんだ」とはっきり認識しましたね。その後、僕もしつこく「本当にこれでいいですか?」って聞くようにしたんだけど、それでも「うん、大丈夫」って言いながら大丈夫じゃないってことが続きました。

たとえば東京公演の明治座が終わって、地方公演に行くと僕が行かなくなるじゃないですか。そうすると、「もうちょっとこうしよう」って演出を変えたりする。逐一、舞監(舞台監督)が「石井さん、あそこはこう変わりました」って教えてくれるから知ることになるんです。あるいは僕が地方まで行って、「すみません。こういうふうに書き直しましたけど、どうでしょうか」って提案したこともあります。やっぱりその時も、「うん、じゃこれで」って言うんだけど、ちょっと気持ち悪くなると、また変わる(笑)。

ずっとやってた振り付けの人が降りることになって、志村さんが見つけてきた方が担当することになった時もそうでした。志村さんがダンスのところも見るようになったら、すっごい楽しそうでね。「なんだ、ここもやりたかったんだなぁ」って。要するに、僕に気を遣ってくれてたんですよね。石井がやってるから、変えちゃ悪いだろうと。

――とはいえ、全14公演を手掛けているわけですから、演出家として相当信頼されていたと思います。

それは、第1回の舞台の構成がうまくいったからでしょうね。もともとはバカ殿様があって、ひとみ婆さんとかのコントがあって、一幕の最後が変なおじさんだったんです。続いて、三味線を披露して、最後は芝居で泣かせて終わりだったんですけど、「やっぱり最後は志村さんっぽくカラッといきたいな」と思って。

土壇場で僕が「志村さん、変なおじさんを松竹新喜劇の後に持ってきてカーテンコールいきたいんですけど、やらせてもらえませんか?」と伝えたら、「じゃあそうしよう」と受け入れてくれた。お芝居で泣いてから1回暗くなって、映像で「終わり」と出た後に「おまけ」と出る。その後、シリアスな別れと再会のシーンが始まって、最後にポンッと変なおじさんが登場した瞬間、ドカーンッとウケたんですよ。そこで志村さんが「これだ」「あれはうまくいったな」って喜んでくれた。信頼を得られたのは、それが一番大きいと思います。

演出を降りようと思ってサシ飲みした

――志村さんと最後にお会いになったのはいつごろになりますか?

今年の2月22日にあった古希の誕生日会です。すごい元気そうだったから、安心してね。4年前の大阪公演で一度降板して以来、ちょっと年とっちゃったかなって感じがあったんだけど、顔色もよかったしちょっとふっくらしていたので。「そろそろまた今年の『志村魂』の話しなきゃな」って、そんな矢先の出来事でした。


――きっと志村さんも舞台のことを考えていたでしょうね。残念ながら亡くなってしまった志村さんに、届くなら言ってあげたいこと、伝えたい思いなどあればうかがえますか?

まさか亡くなるなんて夢にも思わないじゃないですか。中村勘三郎さんの時もそうだったけど、死ぬなんて思っていない人が亡くなるとビックリしますよ。「最近見ないなぁあの人。でもだいぶ年なんだろうな」と思っていて亡くなれば「そっかぁ病気だったんだ」とかって心も追いつくけども。昨日まで元気だった人が急に亡くなるとやっぱりね……。いまだに実感が湧かない。

2016年に倒れられた翌年かな。『志村魂』の演出を十何年やったけど、実は演出を降りようと思ってサシ飲みしたんですよ。基本的には同じことをやってるから、実のところ僕がいなくても舞台は回る。それで1回ちょっと飲んでくださいってお願いしたんです。

その席で僕が、「これでギャラもらうのは恐れ多いですから、志村さんが演出なさったらどうでしょうか。あるいは別の人を入れて新しいことをやってもいいし。もう僕はいなくてもいいんじゃないですか?」って伝えたら、志村さんが「いや、石井ちゃん。オレも、もう何年できるかわからない。好きにやりたいんだよ。だから、石井ちゃんも肩に力入れず、らくぅ~にやってくれよ」とおっしゃいましてね。

それで肩の荷が下りたんです。そこから、2人でスタッフやプロデューサーに対して「こうしたほうがいいですよね」って意気投合するようになりました。

ある時期に、いつも頼んでいた会社が変わって照明とかを含むスタッフが一新したんですよ。これがちょっとイマイチだったから、2人で戻してくれって訴えたことがあって。その時、けっこう強めに志村さんも主張していてね。そんな姿を見るのはほとんど初めてってくらいに。そこでお互いに共闘して「言いましょう」とやれたから、あの時サシ飲みして本当によかったと思いました。

僕自身、あの一件以来、「志村さんがやめると言うまではやろう」と決意を固めたところがあったんです。それがこんな形で途絶えちゃうなんてね。僕も志村さんも、もうちょっと年をとって、年とったなりのことをやりたかったなって思うんだけど。今なにを伝えたいかといっても、「次、なにしましょうか?」っていう打ち合わせのことしか浮かばないんですよ。

舞台裏のせめぎ合い――取材を終えて

『志村魂』の第1回公演は、さまざまな思いが寄せられた舞台だった。キャスト、脚本のクレジットを見て、その異色さに当時は目を疑ったものだ。しかし、2年目以降はいつものよく見るメンバーに落ち着いた。結果的に、初回は二度と見られない貴重な公演となった。

石井さんを演出に迎え、志村さんも新しいチャレンジには前向きだったのではないだろうか。一度は受け入れたうえで、実際に「ウケない」という事実にイライラしたのだと思う。それは「子どもにも、お爺ちゃんお婆ちゃんにも笑ってほしい」という思いに反することだからだ。

波乱の幕開けだった『志村魂』は14年続く人気公演となり、最後まで石井さんは演出家としてたずさわった。なにを変え、なにを変えないべきか。志村さんと石井さんは、毎年舞台裏で秘かにせめぎ合い続けた。それだけに、ドカーンッとウケた時の喜びはひとしおだったことだろう。

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