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急死した「キミオアライブ」作者、家族が「生きた証し」発信する理由

仕事場を再現した実家の部屋。記念すべき連載の1ページ目が机の上に置かれていた
仕事場を再現した実家の部屋。記念すべき連載の1ページ目が机の上に置かれていた

目次

今年8月、月刊少年マガジンに「キミオアライブ」を連載中だった漫画家、恵口公生さんが23歳で亡くなった。「夢ノート」にたくさんの夢を書き連ねた高校生の男子生徒がユーチューバーになり、同級生を巻き込んで夢を実現していくストーリー。初回、巻頭カラーの冒頭、主人公がこうつぶやいている。「ぼくは・・・・まだ やりたいことが・・・・」。恵口さんとはいったい、どんな人だったんだろう。ツイッターで彼女の追悼アカウントをつくった遺族をたずねた。

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「生きた証し」を残したい

<話を聞いたのは、父(56)、母(56)、姉(26)。まず、9月下旬から始まったツイッターの追悼アカウントを、なぜ作ろうと思ったのか聞いた>

姉:訃報(ふほう)が出た時の反響はすごくて、「恵口公生」が、一時、ヤフーの検索ランキングでは1位になった。しかし、作品がこれ以上進んでいくわけではない。どんなにファンだった人もいずれは忘れていく。震災もそうですが、風化は絶対にある。妹の作品を色んな人に大事にしてほしいと思うから、ツイッターの中だけでも、こういう子がいた、がんばったという「生きた証し」を残したいと思った。

母:私は、何かやってないと、感情を保てないと思ったから。ぽっかり穴があいて。

姉:生きていた時は、性別も年齢も公表していなかったけど、私たちが書き込んだことで女の子だとわかった人がほとんどだと思う。妹が油絵で描いた自画像も載せたし。

母:あれは理想の自分だと思うな。元気ではつらつとして歩いている。

<フォロワーは、2週間ほどで3千人を超えた。家族は「コメントを見て、気持ちが和らぐ」と話した>
「いっぱい元気をもらいました」
「人生や考え方が変わりました。この先ももちろんあの漫画に支えられると思います」
「キミオアライブという作品のすべてが衝撃でした。行き詰まった時何度も読み返したい」
(追悼アカウントに寄せられたコメントから抜粋)

母:あの子のツイッターのアカウントには入れないだろうと、いくつかパスワードを試したらヒットしてログインできました。すると、亡くなった後も、たくさんの人がアクセスしてコメントをくれていました。連載だけでなくツイッターをしていた苦労をわかってくれている人もいました。
遺品の中にあったファンからの贈り物の写真を、端っこだけ写真に撮って載せてみたら、「私が贈ったものです」とすぐ連絡があり、お礼を言えました。第3巻が読みたい、という声も多かったです。

家族が作った追悼アカウント
家族が作った追悼アカウント 出典:@kimio_mg

漫画家になるために生まれてきた

<「絵に対するこだわりが強かった」という恵口さん。原稿がぎりぎりまで描き直し、寝る間も惜しんで作品に向き合う妥協を許さない人だった>

姉:漫画描くために生まれてきたような子。小学校からコマ割り漫画を描いていた。

父:小さい頃、指人形とかで、物語を作って、ずーっと一人遊びしていた。感受性が強く、好きな漫画のキャラクターにのめり込むと、どんどんはまりこんでいた。「キミオアライブ」のキャラクター作りにも、すごい思い入れがあった。人生経験が浅いのに、それをどうやって培ったのかはいまだに謎です。

父:絵を描くことが好きだけど、引っ込み思案で。

母:画力がずば抜けていたから、人とのコミュニケーションは絵を通じてだった。みんなにうまいね、もっと描いて、って。

姉:すごく負けず嫌いな性格だった。

母:家族は「一握りしか売れない漫画家なんて」と言い、本人も東京芸大を目指して油絵の勉強をしていたが、プランタン出版の編集者にスカウトされ、「PEYO」のペンネームで「ボーイ ミーツ マリア」という作品を描いた。それを読んだ講談社の編集者が、ツイッターのダイレクトメッセージで連絡してきた。とんとん拍子でみんなに引き上げてもらいました。

父:絵に対するこだわりが強かった。順調な時でも、原稿はぎりぎりで、一個一個丁寧に描いて、何回も描き直して。妥協は一切しなかった。私が「とりあえず出しちゃいな」って言ってもできない。それがいいとことでもあるんですが。

母:漫画一本で、脇目も振らず。全く遊んでいない。少しでも時間があると「眠りたい」って。自分でも「おしゃれしたい」と、ネット通販で服やバッグを買うんですが、新品のまま部屋にたくさん残っていました。

姉:化粧も、打ち合わせで出版社に行く時くらい。それも、ぎりぎりまで描いているから。支度が間に合わず、途中、コンビニのトイレで私が化粧してあげたりして。

母:細いので、ちょっとおしゃれしてメイクすると見違えるんだけどね。

恵口さんの自画像。左は光、右は陰の部分を描いていると、母は説明する
恵口さんの自画像。左は光、右は陰の部分を描いていると、母は説明する

自分への甘えにストッパーをかけていた

<コロナ禍が単行本デビューと重なったが、売れることよりも連載の原稿が間に合わなくなることを気にしていた。孤独な作業を一人で背負うストイックな生活だった>

姉:若い新人作家がいきなり連載を描くのは輝かしいように見えるけど、「キミオアライブ」は、本当に苦労しながら描いていました。

母:最初は実家の部屋で描いていたが、昨年の11月号から連載が始まり、機材も使うので手狭になり、徒歩10分のところでアパートを借りました。単行本の第1巻が、4月に発売されました。最初の1カ月が大事だった。それが、コロナ禍で本屋が次々と休業して、売り上げが伸びませんでした。

<8月17日、仕事場から病院に運ばれ、19日に亡くなった>
 

母:このままでは連載が打ち切りになるかもしれないと、ツイッターで発信した4コマ漫画などで人気が出て、巻き返しの単行本第2巻が出たばかりでした。

本人がツイッターで発信していた2巻発売のお知らせ
本人がツイッターで発信していた2巻発売のお知らせ 出典:@kimio_mg

キミオアライブ誕生まで

<ユーチューバーの漫画を描くことは、編集者からの提案だった>

父:「キミオアライブ」は、ユーチューバーが主人公の漫画がそもそもなかった頃に生まれた。世間のイメージは、まだネガティブなのが多いので、そこに挑戦しようと。

母:主人公と自分を重ねたかどうかわからないけど、だんだん重なっていってしまったのかもしれない。あの子の描きたかったのは、ヒューマンストーリーだった。だんだんと、人間の成長物語に持っていきたかった。

死を受け入れられない

<ふとした瞬間思い出したり、住んでいたアパートへ毎日寄ったり、追悼アカウントを続けたり……家族はそれぞれの形で向き合っている>

姉:(追悼アカウントは)いつかはネタが尽きるし、いつまで続けられるかわからないけど、今を乗り越えるためには……。

母:それが必要なんです。(娘を亡くした今は)自分ですごい精神状態だと思う。職場では普通に振る舞うけど、仕事場から一歩出てバイクに乗ると、涙がぽろぽろ出て。ふっと顔が浮かんで、いつもと変わらぬ日常、でもあのこはこの世にいない、存在しないってどういうこと? わー、ってわけわかんなくなる。

父:私もトイレとかに行って、一人になると、わーっていう時がある。

母:私はアパートに近づけない。夫は毎日、会社の帰りに寄る。「何で寄るの」聞くと、「まだ身の回りの世話をしたい」って言うんですよ。好きなお菓子とかを買って。「ごみの片付けしてきた」とか。たまるわけないのに。アパートは10月末までは契約を残しています。

父:私は、まだあそこにいるような気がするだけなんだよ。行けば、電気ついてないかなあなんて思いながら。

追悼アカウントに投稿されたファンからのプレゼントなどの写真
追悼アカウントに投稿されたファンからのプレゼントなどの写真 出典:@kimio_mg

夢は見させてもらった

<ツイッターでファンを広げ2巻の発売につなげた「巻き返し」。夢だった漫画家になり、ひたむきに打ち込んだ姿を家族は「夢のような経験だった」と振り返る>

母:でも、色々、夢のような経験をさせてもらいました。このままだと「連載は打ち切りになるかもしれない」と言われたあとの、巻き返し方、あれは本当にわくわくした。ショート漫画がツイッターで、「いいね」が8万もついて。「バズる」ということを経験した。

姉:本を買う瞬間が快感だった。だって自分の妹が描いた作品を本屋さんで買うんですよ。

母:本屋の店員が「キミオアライブさあ」って盛り上がっていた。もう、うれしくて震えた。本当にいい子なんです。純粋で、優しいし。

姉:漫画にかけた人生だった。自分のやりたいことを貫いた。キミオアライブ主人公が目指すように、好きなことで生きていきたいというのは、妹の人生のテーマだった。だから、妹は夢をかなえたんです。

先が見たかった

<連載は、一緒にユーチューブをしていた女の子の父を、命がけで仲間に巻き込もうとするところで途切れた>

父:いろいろこれから膨らませていくつもりだったんだと思います。

姉:伏線をたくさん貼っていた。回収するのが上手だった。

父:「展開は考えているけど言わない。描きたいことはいっぱいある」って言っていた。

「キミオアライブ」の連載を始めた頃のメモ
「キミオアライブ」の連載を始めた頃のメモ

震災犠牲者の取材に通じる思い

私は、東日本大震災の被災地で取材を続けている。そこで出会った人のつながりで、恵口さんの姉を知った。自慢の妹だった恵口さんの死を知り、数年前に急死した私の弟と重なった。

追悼アカウントを作った理由について、「こういう子がいた、がんばったという『生きた証し』を残したいと思った」と語った姉。亡くなって日が浅い時期ではあったが、連絡をとったところ、話を聞かせてもらえることになった。

「生きた証し」を聞くことは、私の取材テーマの柱の一つでもあった。岩手県大槌町で、震災犠牲者の「生きた証し」を遺族に聞き取る事業を手伝いながら、今も、取材を続けている。恵口さんのご家族の心境、「生きた証し」を残したいという思いは、自分や、被災地の遺族と通じる部分があると思った。

恵口さんの作品は、ご家族やファンの言う通り、20歳代前半の女性と思えないくらい、登場人物やストーリーに深みがあり、同系色で描く独特の色づかいがそれを際立たせている。

恵口さんのご冥福をお祈りする。本当に惜しい、先が読みたかったと、あらためて思う。

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