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<金正男暗殺を追う>現実味を増す「死刑」 拘置所からの国際電話
金正男(キム・ジョンナム)氏の毒を塗ったとして、殺人罪(死刑)に問われたベトナム人のドアン・ティ・フォンさん(31)は、一貫して「殺すつもりはなかった」と訴えてきた。しかし、検察や裁判官は「殺すつもりでやったに違いない」と推論。死刑判決が現実味を増す中、フォンは拘置所から、ある人に国際電話をかけていた。国際社会を揺るがした暗殺事件、取材で見えた「その後」を追った。(朝日新聞国際報道部・乗京真知、鈴木暁子)
事件当日の監視カメラには、フォンの手が正男氏の顔に向かって伸び、何かが塗りつけられる様子が映っていた。いったい何が塗られたのか。
この謎を解くため、警察はフォンの手と正男氏の顔を調べることにした。逮捕したフォンの手からは爪を採取し、死亡した正男氏の顔からは目の粘膜や顔の表皮の一部を採った。これらサンプルはマレーシア化学局に送られ、毒物鑑定に回された。
鑑定の結果、いずれのサンプルからも猛毒の神経剤VXやVX関連物質が検出された。フォンの長袖シャツの袖からもVX関連物質が検出された。殺意の有無は別として、フォンが塗った液体にVXが含まれていて、それが正男氏を死に至らしめたということが、科学的に裏付けられた。
フォンにVX中毒の症状が見られなかったため、手袋をしていたのではないかとみる向きも当初あった。ただ、鑑定にあたった化学者は後の裁判で「ヒトの手の皮膚や脂肪は厚いため、15分以内に手を洗えば、中毒症状が出かったとしても不思議はない」との見解を示した。実際にフォンは、事件直後にトイレに入り、セッケンを使って数分間、手を洗っていた。
事件から約8カ月後の2017年10月2日、クアラルンプール近郊の高等裁判所でフォンの裁判が始まった。裁判所には報道陣が大挙し、護送されるフォンの様子を中継した。フォンは防弾チョッキを羽織り、重武装した警官隊に囲まれていた。茶髪の下から黒い地毛が伸び、前髪は目にかかっていた。
入廷したフォンは、法廷の真ん中にある被告人席に腰を下ろした。隣には通訳が1人ついた。高い天井の法廷はテニスコートほどの広さがあったが、傍聴席は国内外の記者やベトナム政府関係者などでいっぱいになった。
裁判官が現れると、法廷は静まりかえった。その静寂を破って、検察官がフォンの罪状を読み上げた。事件のてんまつやフォンの役割を説明した上で、「被告は北朝鮮の男と同様に殺意を持っていた」と指摘した。
その内容は通訳を通じて、フォンにも伝えられた。フォンはうつむきながら、何度も首を振った。フォンは供述調書の中で、こう訴えている。「いつものいたずら撮影と同じだと思っていたのです。彼(カメラマン役の北朝鮮の男「ミスターY」)はうそつきだ。私は利用されたんです」
裁判は延期が続き、審理が数日ある月もあれば、何もない月もあった。
この間、殺すつもりはなかったとするフォンの訴えは裁判官に退けられてきた。裁判官は、確定的な殺意があったとする検察側の主張を、ほぼ認める判断を2018年8月に示している。殺人罪が確定すれば、死刑になる可能性があった。
フォンの父ドアン・バン・タインさん(65)は取材に、娘の健康を案じていると語った。「帰ってきたら娘に食べさせてあげたい」と、自宅で豚を2頭飼い始めた。いつ帰国してもいいように、ベッドも準備した。
タインさんが悔やむのは、娘が北朝鮮の男の話をうのみにし、犯罪に手を貸してしまった可能性があることだ。「娘は余りにも不用心で、愚かでした。事件前に戻れるなら、どんな手段を使っても、止めに入りたい」と悔い、亡き正男氏や遺族に対して「許しを請いたい。どうかおわびさせてほしい」と語った。
ベトナムが旧正月を祝った2月初旬には、タインさんのもとに拘置所のフォンから国際電話があった。フォンは「どうか健康に過ごしてください」と話していたという。
いたわりの電話は、心配する父を安心させたい娘の、せめてもの親孝行だったのかもしれない。逮捕時に28歳だったフォンは、拘置所の中で、3度目の誕生日を迎えようとしていた。
<お断り>事件発生前から裁判までを振り返る連載「金正男暗殺を追う」(https://www.asahi.com/special/kimjongnam/3/)では、フォンさんの呼称(容疑者や被告など)の変化による混乱を防ぐため、呼称を省いています。フォンさんは4月1日にマレーシアの裁判所から禁錮刑を言い渡され、刑期を終えた5月3日に出所、ベトナムに帰国しました。
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